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「反復の中で同一と差異を見い出す」ことによる既知、未知の再発見。〜重ねられてゆく歩みは色褪せない〜

「同じ場所への旅を重ねること」にも楽しみがあると思う。

以前歩いたことのある道を、幾許かの間隔を空けてから歩いてみると何とも言えない新鮮な気持ちになる。

その間隔は半年、一年、あるいは数年かもしれない。

最初は地図を頼りに歩いた道を、次は地図を使わずに歩みを通じて身体に刻まれた記憶を頼りに歩き直してゆく。

「あの曲がり角を曲がると、その先にはたしかこんな光景が広がって…」という記憶を先行させながら、実際の道や光景があとから追いついてくると、「やっぱりそうだった」という「確信」の色が深みを増せば、「あの時は気付かなかった」という「驚き」の色が新たに重ねられていく。

そう思うと、「歩く」という営みは絵画のキャンバスに色を重ねてゆくことに近いのかもしれない。

最初に歩いた時はキャンバスに下地の色を淡く重ねてゆき、それ以降は既に塗られた色を重ねたり、新しい色を重ねてゆく。

知識の体得、変容あるいは生成され続ける知識。光景から情景への変容。

「反復の中で同一と差異を見い出す」ことによる既知、未知の再発見。

重ねられてゆく歩みは決して色褪せない。

物が物であるかぎり、物は真実のところ〔in Wahrheit〕何であるのか。われわれがそのように問うとき、われわれは物の物存在(物性〔Dingheit〕)を熟知しようとしている。肝要なのは、物の物的なものを経験することである。そのためにわれわれは、われわれがずっと以前から物という名称で呼びかけてきた、あの存在するものの一切が帰属している範囲に精通していなければならない。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

路上の石は物であり、耕地の土塊も物である。壺は物であり、路傍の井戸も物である。しかし、壺のなかのミルクと井戸の水はどうだろうか。これらも物である、空の雲と野のアザミが、秋風に吹かれる葉と森の上のアオタカが、その名称にふさわしく、物と呼ばれるとすれば。これらすべては、実際、物と命名されるにちがいない、それどころか、いま数え上げたもののようにはそれ自体では自己を示さないもの、すなわち出現しないものでさえ、物という名称を付けられるとすれば。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

そのようなそれ自体出現しない物、すなわち「物自体」〔Ding an sich〕は、カントにしたがえば、たとえば世界の全体であり、それどころか神自身でさえそのような物である。もろもろの物自体と出現するもろもろの事物、そもそも存在するあらゆる存在するものが、哲学の用語では、物と呼ばれるのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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