自然に委ねられることは何だろう?
今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「『周縁制御の基礎科学』の成立根拠」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。
最近、「自律分散システム」の工学、「創発システム」の工学などというものが注目されている。そこでは自然的になされる境界条件の制御が、しばしば人為的な制御をはるかに凌駕する見事さを示すという事実にまずは注目する。生命過程を髣髴とさせるような、柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある。
自然的制御に関する基礎科学が成立する根拠はあらためて問うまでもない。自然を虚心に観察してその形や動きのあり方を記述し、そこに法則を見出そうとする努力はアリストテレス、ケプラー、ガリレイら科学の創始者たちがすべておこなったことである。そうした科学の基本的態度にわれわれが立ち返るだけである。そこにはまだ謎が多すぎるからである。ミクロ世界の長旅の果てに、ようやく私たちは生々流転する経験世界に立ち戻り、自然学を作り直そうとしているのではないだろうか。
経験世界の法則の中で際立った重要性をもつものとして、エネルギーの散逸に関する法則がある。(中略)温度差や物質の濃度差も時間とともに均一化される。総じて、構造は崩壊に向かうのが自然の過程である。自然的であろうと人為的であろうと、マクロな制御においてはエネルギーや物質のこのような散逸を逃れるすべはない。
自然に委ねられることは何だろう?
蔵本さんの文章を読みながら、しなやかに揺れる「竹」のイメージとともに次のような言葉が降りてきました。
「制御しようとせず、自然に委ねていく」
計画どおりに物事を進めたい。何かが起きても想定の範囲内におさめたい。日々の生活の中で、ある意味で予定調和的な将来が訪れることを願うことは誰しもがあるのではないでしょうか。
しかし、2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は、自然が人の想像を遥かに超えるということを思い知らせました。
「柔軟性に富んだ高度な機能をもつ人工システムを設計するためには、境界条件の制御における人為性の度合いを減らし、むしろ自然的制御に任せる部分を多く取り入れることが有効であり、大きな可能性をもつという思想がそこにある」という著者の言葉は、「自然との共生」への回帰を促しているようにも思えてきます。
日本は、世界の中でも特に自然災害の多い国です。治水ではあえて「氾濫」させて被害を抑える。地震では揺れに耐える(耐震)から、揺れを受け流す(免震・制震)へ。
こうした知恵・技術の中には「自然に委ねる」という精神が、根づいているような気がするのです。そう思うと、このような問いが浮かんできました。
「自然に委ねられることは何だろう?」
「エネルギーは散逸してゆく」という自然の法則
「総じて、構造は崩壊に向かうのが自然の過程である。自然的であろうと人為的であろうと、マクロな制御においてはエネルギーや物質のこのような散逸を逃れるすべはない。」
この言葉に触れたとき、なぜだか次のような言葉が頭に浮かんできました。
所得格差、権力構造。
「エネルギーの散逸」におけるエネルギーという言葉を「ポテンシャル」や「溜め込まれたもの」と読み替えてみると何が言えるだろう。そんな直感があったのかもしれません。
ウォルター・シャイデル(歴史家)が著書『暴力と不平等の歴史』で詳細に紐解いているように、これまで様々な時代・場所で「多数の持たざる者」と「少数の持てる者」という社会的な不平等が発生しました。それらの不平等の是正のほとんどは「革命」「戦争」「崩壊」と暴力を伴うもので、唯一「疫病」のみが暴力を伴わないものであったとされています。
「エネルギーは散逸し、構造は崩壊に向かう」という自然法則は、不平等の是正と構図が同じように思えるのです。一部に溜め込まれた「何か」は理由や過程は様々なれど、欠けている場所に流れ込んでゆく。
エネルギーの散逸が行き着く先は「平衡状態」、つまり全ての場所でエネルギーが等しくなります。そして「互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態」は「動的平衡」と呼ばれます。
私は「平等」という言葉に、少しばかり窮屈というか、固定的なニュアンスを感じていました。ですが、動的平衡という言葉から「エネルギーが等しい中でも流れや動きがある状態」が想起されて、平等という言葉に瑞々しさを感じ始めています。
「平和」「平等」がもし真に訪れるのだとしたら、それを根底で支えるのは「欠けたものが埋まるように、傷ついた身体が治癒するように、その場所へ滞ることなく流れ続ける仕組み」なのだと思います。それらはどのような形でこの社会に実を結ぶのでしょうか。
わたしの中で考えたいテーマがまた一つ。