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「未来」と「予測」と向き合うヒント〜現在の自分から見た過去の自分、過去の自分から見た現在の自分〜
自分の人生を振り返ってみると、現在の自分の状態を過去の自分がどれだけ見通すことができたかと自問してみると、「全く」と言っていいほどに見通すことはできていなかったと思います。
過去の自分と言っても、どこまで遡った自分を想定するのか。
1秒前の自分、昨日の自分、1ヶ月前の自分、1年前の自分、10年前の自分、生まれた瞬間の自分。
過去に遡れば遡るほど、現在を見通すことはより難しい。
なぜならば、予期せぬ変化が重なり続けていくから。
現在の自分を「ある程度」見通すことができる可能性の自分はどれほど過去の自分だろう。
1ヶ月前の自分、昨日の自分、あるいは1秒前の自分。
どの自分だろうか。
そう思うと「未来を予測」して、その未来が実現すること、あるいは未来の予測が外れないと願うことに、はたしてどれほどの意味があるのだろうか。
「現在の自分を、過去の自分はどれだけ見通すことができただろうか?」
この問いに内在する非対称性が、「未来」と「予測」に対する向き合い方を見つけるヒントを与えてくれるように思う。
予報の可能・不可能という事は、考え方によればあまりに無意味なる言葉なり。例えば今月中少くも各一回の雨天と微震あるべしというごとき予報は何人も百発百中の成功を期して宣言するを得べし。ここに問題となるは予報の実用的価値を定むべき標準なり。
予報によりて直接間接に利便を感ずべき人間の精神的物質的状態は時ならびに空間と共に変化しつつあり。したがって天然界のある状態がその人間に有利なるか不利なるかは時と場所とによりて変化す。例えば水草を追って移牧する未開人にとりては時と共に利害の係る土地の範囲を移動す。また一つの都府の市民というごとき抽象的の団体を考うる時はその要素たる各個人とは独立に時と共に不変なる標準も考えらるれども、一般には必しもしからず。例えば一般の東京市民にとりては、夜半の小雨はあえて利害を感ぜざるべきも昼間の雨には無頓着ならず。また平日一般の日本国民は京都市の晴雨に対しては冷淡なるも、御大典当時は必しもしからざるべし。