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"しっかり"という言葉の質感、やわらかさ〜深層筋を働かせる感覚を通して〜

「"しっかり"という言葉の質感」

「しっかりする」「しっかりしよう」「しっかりしなさい」

普段何気なく用いている「しっかり」という言葉は一体何を表すのだろう、と思うわけです。

緻密、頑健、芯がある、ブレないなど、どことなく硬いイメージ、印象を伴って「固めて形作る」ようなところがある。

一方、身体を通すと「しっかり」という言葉は必ずしも「硬さ」を伴うものではないように思えてくる。

身体の深部にある筋肉、いわゆる「深層筋(インナーマッスル)」をそれこそ「しっかり」働かせて身体のバランスを取る場合、ギュッとした「かたさ」はなく、深層筋にやわらかく包み込むように力が入っている感覚がある。

全身を緩やかに、それでいて力強く繋ぎとめる。

"しっかり"という言葉には「強さ」と「やわらかさ」が重なる「しなやかさ」が備わっている。

人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通じて供給されるものである。生れつき盲目で視神経の能力を欠いだ人間には色という言葉はなんらの意味をもたない。物体の性質から色という観念を抽き出して考える事がどうしてもできない。トルストイのお伽噺に牛乳の白色という観念を盲者に理解させようとして無駄骨折をする話がある。雪のようだと云えばそんなに冷たいかと応え白兎のようだと云えばそんなに毛深い柔いのかと聞きかえした。

寺田寅彦『万華鏡』

それでもし生れつき盲目でその上に聾な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に聯関して生ずる感覚のみの世界であって、吾々普通な人間の時間や空間や物質に対する観念とはよほど異った観念をもっているに相違ない。もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだん発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑ない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像しがたいようなものに相違ない。

寺田寅彦『万華鏡』

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