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「地域性」とは「場の呼吸」ではないだろうか。
地域、ローカルという言葉がありますが、この言葉にふれた瞬間に何を想像するでしょうか。どことなく緑豊かな田園風景、ゆったりした田舎、活気ある下町。たとえば、そのようなイメージでしょうか。
一方、私は無意識のうちに区別してしまっているような気がする高層ビルが並び立つような、いわゆる「都市部」や「都心」は地域、ローカルに含まれないのだろうかと考えてみると、それはそれで違うように思います。
地域性、ローカルという響きからは、虫眼鏡や顕微鏡で範囲をしぼりながら解像度を上げてゆくことを想起します。そう思うと、あらゆる場所、空間が地域であり、ローカルに含まれる。自分の家の近所もひとつの地域であり、ローカル。
では、地域性、ローカリティとは一体何を意味するのでしょうか。人や場所の雰囲気?街並み、佇まい?水や空気の新鮮さ?街の香り?
地域性やローカリティという概念を構成する要素は様々あり、それら全ての総体であると思うのですが、私は「呼吸」あるいは「息づかい」と考えています。
そこに流れている呼吸、リズム、ペース。
ゆったりしている、せかせかしている、変化が穏やか、変化が激しい、などなど。
そこにいる人の生活、そして、それを彩り支える自然や人工物。
地域性やローカリティとは「静と動」によって、創発的に絶え間なく編み込まれ続けてゆくユニークな編み物のような、そんな感覚があります。
このことで絶えず想い起こされるのは、一九一一(明治四四)年、和歌山市で行われた夏目漱石の「現代日本の開化」と題する講演のなかの有名な言葉です。日本の近代化を考えるうえで、多くの人に参照されている言葉ですが、「西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である」という見解です。それはどういうことかというと、内発的とは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾がやぶれて花弁が外に向かうのをいい、また外発的とは外からおっかぶさったほさの力でやむをえず一種の形式をとるのを指したつもりなのである、と漱石はいいます。そして、日本の開化はそのような外発的なものゆえに、「皮相上滑りの開化」と呼んだのでした。
いま、私は「文化も、文明も、その根底において、その地域固有の生命性と深くつながっている」といいましたけれども、この「地域固有の生命性」こそが、あるべき近代化や発展の内発性の源であると考えています。これまでことばの表現は異なっても再三述べてきましたように、それは、その地域の自然・風土・歴史にもとづいた固有の生活文化であり、その地域文化の「個性」とも「いのち」ともいえるもので、根本において、その地域固有の「大地に根ざすもの、大地に発するもの」だといえます。この「大地」とは、そこに特有の自然環境において人と動植物が織りなす文化としての固有の共生活圏のことなのです。