「集団的知性」と「共鳴・同期・干渉・共感」
今日は『植物は<未来>を知っている 9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』(著:ステファノ・マンクーゾ 他)から「陪審定理、インターネット、集団的知性」を読みました。
集団が個人よりも適切な判断・決定を下すことのできる確率が高まることを「集団的知性」と呼ぶのでした。「全体が部分の総和以上となる」とも表現されます。
「陪審定理」を初めて耳にしましたので、概要を調べてみたところ、確率論に基づいて多数決の信頼性を証明した定理のようです。
啓蒙活動などにより個々の投票者に正しい結論を選択する能力を、僅かでも付与さえすれば「参加者の平均正解率が1/2を越えている」という条件は達成可能とあります。二者択一の問題でランダムに投票すれば、平均正解率は1/2であり、わずかでも正解を知っている(正解を導く知がある)ならば多数決が有効となる。
厳密な証明は元の論文を読んでみたいと思いますが、非常にシンプルな定理のように思います。
陪審定理のカギは「適切な判断能力をもっている」という箇所にあるように思いました。では、適切な判断能力とは何でしょうか。たとえば、人の判断は感情によって左右されます。それは必ずしも感情を排除することが正しい判断を導くことを意味しませんが、人間の判断には少なからず「ゆらぎ」を伴うことだと思います。
ゆらぎは波のように互いに干渉しあって増幅することもあれば、相殺しあうこともある。増幅しあう場合、相殺する場合のいずれも適切な判断につながり得るように思います。ゆらぎが増幅しあう場合、例えば社会変革のような大きな力を生み出すかもしれません。
ゆらぎが相殺しあう場合とは、個々の判断において重なり合う中心・核心部分があって、そのまわりにある雑音のようなものが互いの判断を重ねる中で打ち消されていく。結果、核心にせまり、正しい判断を下すことができる。そのようなことを思いました。
「集団的知性」と「共鳴・同期・干渉・共感」という現象には通底する何かが存在しているように思えてなりません。