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「贈与の暴力」を生み出さないということ

ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』より「臓器提供の話」と「自分には<借り>があると思うことの効用」いう節を読みました。

今日は「見返りを求めない贈与」について。一部を引用します。

そこで、まず<贈与>の性格から考えると、臓器提供は<返礼を求めない贈与>である。贈り手であるドナーは相手から同等の見返りを聞いたいしているわけではない。それどころか、大半の場合、ドナーはすでに死亡している。したがって、臓器の提供を受けたほうはドナーに返礼をする必要がない。というよりは、ドナーに対して、返礼ができないと言ったほうが正しい。
臓器の提供を受けた人は、肯定的なかたちで<借り>を経験する。<借り>があることを自分に対する脅威とは感じず、より高い次元で<借り>を受け入れようとする。したがって、この状況では、相手に負い目を押しつける「贈与の暴力」は生まれない。ここではもはや、当事者同士 - すなわち、贈り手と受け手が対等かどうかは問題ではないのだ。贈り手は一方的に与え、受け手は一方的に受け取って、それでよしとされる。
私たちが目指すのは、過度に発達した資本主義経済のなかで、「自分には<借り>がない。いまの自分が持っているものはぜんぶ自分の力で得たものだ。だから、人に分けてやる必要はない」とうそぶく新自由主義的な自律した人間ではない。また、その犠牲になって、とうてい返せない<負債>を抱え、自律を失ってしまった人々でも、もちろんない。<借り>の概念をもとに、お互いが助けあい、弱い部分を補いあいながら、それでもひとりひとりが自律している - そういった人間である。

「相手に負い目を押しつける「贈与の暴力」は生まれない。」

特に「贈与の暴力」という言葉がとても印象に残りました。

贈与には「返礼を求めないものである」とする哲学的な捉え方と、「返礼を求めるものである」とする社会学的な捉え方があるのでした。『贈与論』で有名なマルセル・モース(社会学者、文化人類学者)は、返礼を求める贈与を「贈与交換」と呼び表しています。

見返りを求める場合「等価であるかどうか」が問題となり、もしも等価ではないとなれば、その差分が「借り」となって、埋め合わせることのできない相手を束縛する力として作用します。

何かを贈る側が見返りを求めていないとしても、受け取った側が「借り」ができてしまったと思えば、そこには何かを交換する形で「借りを清算する」力が働きます。

では「見返りを求めない贈与とは何だろう?本当に存在するのだろうか?」という問いが浮かんできます。

そのような問いに対して「臓器提供は<返礼を求めない贈与>である」との言葉は、たしかに一例かもしれないと思いました。

ドナー(臓器提供者)が死亡している場合は、受け取り手がドナーに恩を返すことは叶いません。ですから「一方的に与え、一方的に受け取る」という関係が成立します。受け取り手が「臓器提供など望んでいないのに...」と思わないかぎり、相手に負い目を押しつける「贈与の暴力」は生まれません。

臓器提供は事例として説得力があるように思いますが、一方で日常生活の中で実践する上での示唆を得ようとすると、やや距離が遠く感じます。ここで「ドナーが死亡しているケースを拡張できないか」と考えてみます。

状況を整理してみると、ある人が臓器提供の意思を示すとき「自分の臓器を誰が受け取るか分からない」という状態にあります。

この「誰が受け取るか分からない」という条件が満たされるとき、贈与は「見返りを求めないもの」となるのではないでしょうか。

<借り>の概念をもとに、お互いが助けあい、弱い部分を補いあいながら、それでもひとりひとりが自律している - そういった人間である。

著者のこの言葉は力強く響きますが、このような人間像に求められるのは、「自分は誰かから何かを受け取っている」という負い目のような感覚というよりも「ていねいな観察や他者への想像力」のような気がします。

たとえば、道にゴミ一つ落ちていないとしたら、名も知らない顔も見えない誰かが掃除をしてくれているのかもしれませんし、あるいは、ゴミが出ないような社会を構成する一人ひとりの気づかいによるものかもしれません。

そうした「気付く力と想像力」が「見返りを求めない贈与」の原動力になるのではないだろうか。そのように思いました。

これは「利他とは何か?」という問いに通じる話です。

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