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自然とにじみ出てくる「表情の変化」という美しさ

今日は書籍「「利他」とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「用いられるなかで生まれる命」を読みました。引き続き、民藝運動を起こした柳宗悦(やなぎ むねよし)さんの思想について。一部を引用してみます。

用とは「用いられる」、つまり「用い得る」ということです。「物」は、見られるだけでなく、用いられ、生活のなかに浸透していくことで、真に「いのち」を帯びたものになる。「民藝」は生まれたときに「民藝」となるのではありません。用いられることによって「民藝」になっていくのです。
書物にも似たことがいえます。「本」と「書物」という言葉を使い分けて、本は書店に置かれているもの、書物は誰かに読まれたもの、と言い換えるとしたら、民藝は、じつに「書物的」です。本は読まれることで書物になる。
さらに同じことは料理にもいえます。それは人に食されたとき、真の意味での「糧」になる。出来上がったときがもっとも美しいなどということは全くない。用いられ、時のちからを得て、変貌し、美が深まっていくというのが民藝をめぐる柳の実感だったのです。

「用いられ、生活のなかに浸透していくことで、真に「いのち」を帯びたものになる」「用いられ、時のちからを得て、変貌し、美が深まっていく」

これらの言葉がとても胸に残りました。

同時に「時のちからを得て、美が深まるとはどういうことだろう?」と考えてみたくなりました。

いくつか頭にイメージが湧いてきた物を取り上げてみます。革、書物、調理器具です。

革は時間と共に美が深まる物の一つではないかと思います。使い立ての頃と使い続けていく中での革の「表情」は明らかに違います。色の深み、ツヤ。手入れをしながら使い続ける中で、「自分」になじんでいきながら表情が変わっていきます。

使う前には戻れない、表情の不可逆的な変化には、まるでそれを身につけている人の「物に対する心づかい」がにじみ出ているかのようです。

書物はどうでしょうか。ここでの書物は「紙」の書物です。

読みすすめる中で折り目がついたり、手の汗が紙にしみこんでいったり。触れた時間の積み重ねが紙の表情に変化をもたらします。一度読んでみた本もあとから読み返してみると「ここはたくさん読んだんだろうな」と思う箇所もあれば「ここはあまり読まなかったんだろうな」という箇所もあります。

いずれにしても紙の表情の変化は、過去の読者が向き合った「時のちから」によるものです。

調理器具はどうでしょうか。フライパンやまな板、包丁など、日常生活に欠かせないものです。見てながめて楽しむというより、やはり「調理」という実用のためにあるものです。

フライパンであれば使い続けるうちに火との接触部分の色味が変わります。まな板であれば食材を切っていくうちに包丁と接触して板に傷が入ります。包丁であれば食材を切り進めるうちに刃こぼれすることがあります。

そうした色の変化や傷という「表情」は、日常生活の中で使われる中で自然とにじみ出てくるものであって、決して傷をつけようとしてついたものではありません。

このように考えてみると「時のちからを得て、変貌し、美が深まっていく」という過程で重要なのは「自然とにじみ出てくる」ことではないか、という気がしてきます。「自然とにじみ出てくる」というのはとてもコト的です。

人と物。

「使う・使われる」という関係にかぎらず、どのような関係を積み重ねるかが「表情」の変化につながってゆく、というのはじつにコト的だなと思うわけです。

そういえば「人と物」と書いて「人物」と読むわけですが、人物という言葉を使うとき、「人」にしか意識が向いておらず「物」の存在を無意識のうちに捨象していることに気づきました。

人物とは、文字どおり人と物の両方を含む「環境」あるいは「関係性」を表しているのではないでしょうか。言い変えると、人物という言葉は「モノ」的ではなく「コト」(あるいは場)的な言葉なのではないかと。

そこには時間と空間の両方が含まれていて、時間のちから、空間のちからが人と物の双方に作用し続けている。

そのようなことを思いました。

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