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物(モノ)という言葉の奥行き〜カラダから始めよ〜

今日も変わらずヨガに取り組む。

自分で自分を制作し続けているような、出会い直しているような感覚です。

呼吸を大切にしながら身体を動かしていると、いつも何かが降りてくる。

何が降りてくるのかは自分では全くコントロールできないので、ある意味で「ご縁」としか言いようがありません。

ふと「自分の身体は"モノ(物)"なのだろうか」と自問してみる。

すると、どこかで「モノではない」と答えたくなる自分がいる。

でも、一体それはなぜなのだろう?

自分の身体を物質的な観点で捉えれば、それこそ細かく見ていけば素粒子(及び、その集合)で構成されているわけですが、だからといって物質的な観点のみを捉えて「モノ」であると安易に結論付けてはならない…そんな気がするのです。

身体のうちで意識的に動かせる部分よりも、無意識的に(自動的に)動いている部分のほうがはるかに多く、それにより全身が円滑に機能している。

固体ではあるけれど、しなやかで、色々な「かたち」を取ることができる。自由に流れる水のように、器に注がれれば器のかたちを映し取るように自らを変えることのできる液体のようでもある。

この世に生を受けた瞬間から、(成長や老いなど)表現は違えど変化し続けている。

表から見ると「対称的」なようで、裏はかなり「非対称」でもある。臓器は対で存在しているものもあるけれど、対ではないことも多い。あるいは、脳は左右で対になっているけれど、左脳と右脳では司っている機能は異なる。これも裏の「非対称性」として捉えることができそうだ。

と、考えてみると「モノ(物)」という言葉に対して、どこか「画一的」「均一的」あるいは「固定的」「不変的」いったイメージ、先入観を持ってしまっているのかもしれない。

いわゆる「モノ(物)」という言葉の対象は時が経てば少なからず「かたち」を変えている。その変化は、知覚できる時間のスケールで顕著に表れる場合もあれば、自分が生きているうちには知覚できないほど変化が緩やかな場合もある。

自分の身体を起点にして、モノ(物)を「流動的で変化している存在」と思えるようになり、霧が晴れるというのか、どこか気持ちが軽くなりました。

「自分の身体は"モノ(物)"なのだろうか」という問いを起点にして、モノ(物)という言葉の「奥行き」がほんの少し深く感じられるようになったかもしれません。

構想力の論理によって私が考えようとするのは行為の哲学である。構想力といえば、従来ほとんどつねにただ芸術的活動のことのみが考えられた。また形といっても、従来ほとんど全く観想の立場において考えられた。今私はその制限から解放して、構想力を行為一般に関係附ける。

三木清『構想力の論理 第一』

その場合大切なことは、行為を従来の主観主義的観念論におけるごとく抽象的に意志のこととしてではなく、ものを作ることとして理解するということである。すべての行為は広い意味においてものを作るという、即ち制作に意味を有している。構想力の論理はそのような制作の論理である。

三木清『構想力の論理 第一』

一切の作られたものは形を具えている。行為するとはものに働き掛けてものの形を変じ(transform)て新しい形を作ることである。形は作られたものとして歴史的なものであり、歴史的に変じてゆくものである。かような形は単に客観的なものでなく、客観的なものと主観的なものとの統一であり、イデーと実在との、存在と生成との、時間と空間との統一である。

三木清『構想力の論理 第一』


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