昨日は、「ゆらぎ」の概念を物理学における「多体問題」と結びつけながら関係性を探ってみた。
互いに作用し合う3つ以上の物体が存在するとき、一般的な条件の下で将来の位置関係(解析的な解)を見つけることは極めて難しい。この発見・業績は数学者アンリ・ポアンカレによるもので、その後の「カオス理論」の発展に至る。
但し、これは「任意の時刻における天体の位置を何かしらの関数を用いて表現することが不可能である」と主張するものではない。(始まりは天体であるが)各物体の相互作用や位置関係を数学的な連立方程式へと変換し、それらを解くというプロセスとは別の形で、将来の位置関係を表現できる可能性があり、実際に三体問題の安定解(動的な軌跡)の調和的な美しさを見た。
アンリ・ポアンカレは「証明するのは論理によってであるが、発明するのは直観によってである。」と述べているが、多体問題の解の一部は「おそらくこれが解となるのではないか?」という直観から始まったものがある。
「分析」という言葉があふれる昨今だけれど、複雑な操作・手続きを経ず、シンプルに「直観」で解を導くというのは、ある意味で「分析」の対極とも言えるかもしれない。当然ながら「分析」が必要かつ有用なことも多々あることから、あらゆる物事を分析の対象とみなしてしまうバイアスから逃れるために「直観」も等しく大切ではないか、と感じる。
さて、そんなことを思っていると「Why the simplest explanation isn’t always the best(最も単純な説明が常に最善であるとは限らない理由)」という2024年の論文を読む機会に恵まれたので、いくつか通じ合う言葉を引いてみたい。
次元削減とは「高次元のデータを元データの何らかの意味ある特性を保持するしながら低次元のデータを変換する」こと。例えば、人と影の関係性を想像してみると分かりやすいかもしれない。三次元空間における「人」の存在も、地面(二次元)に映る「影」を見れば、大体どのような姿形なのか、どのような行動をしているのかなど、特徴を大まかに捉えることができる。
日常生活における物理的な空間としての「三次元」はイメージしやすいけれど、四次元以上になると想像するのは難しい。何かの存在の特徴が複数あれば、それは特徴量が多次元であることを意味する。
たとえば、料理の特徴も見た目、味わい、香り、食材の形・切り方、温度、食感など、いくつもの要素で構成されている。それらの総体として「料理」があるわけだけれど、時として、その中でも目立つ特徴を挙げて感想を表現することもある。言葉による表現は、それこそ「言葉」という有限個の要素を並べて表現するわけなので、冗長性を避けながら特徴を捉えるために自然と主要な特徴を抽出せざるを得ないのかもしれない。
その意味で「美味しい」とか「味わい深い」など、個々の特徴にふれることなく、総体を表現する言葉は貴重だと思う。唯一無二の「ありのまま」ではなく、人それぞれの多様な「ありのまま」を受け入れる器としての言葉。
「直観的に捉える」というのはシンプルでありながら、多様な可能性を内包しているように思う。「直観する」と「シンプルさ」は響き合っている。