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大量生産ではなくて「大衆による生産」

今日でE・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第一部 現代世界」より「第五章 規模の問題」を読み終えました。

次回からは「第二部 資源」より「人間の顔をもった技術」という節を読み進めます。本日は「大衆による生産」について。一部を引用してみます。

現代の経済学が採用している経済計算の方法では、機械は人間のように誤りをおかさないという理由で、工場の経営者は人間という生産要素を排除しようとする。そこで、多大な努力を払ってオートメーション化と工場の大型化が行なわれる。ということは、労働者の交渉力が非常に弱くなるということである。今日の経済学による政策というものは、開発の真の受益者であるはずの貧しい人たちを素通りしてしまう。
巨大主義とオートメーションの経済学は、十九世紀の環境や思考の「遺物」であって、今日の問題を何一つ解決する力がない。まったく新しい思考の体系が必要になっている。モノではなく人間に注意を向ける思考の体系が求められているのである(モノはあとから自然についてくる!)。その思考の精髄は「大量生産ではなくて大衆による生産」といえるだろう。
民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか、人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうるのである。

「モノではなく人間に注意を向ける思考の体系」
「大量生産ではなくて大衆による生産」

この言葉がとても印象的でした。

あらためて繰り返せば、本書が執筆されたのは1973年です。モノの大量生産・大量消費の流れが加速し、「生産性・効率性」追求のもと、人の手仕事を機械へ代替する動きが進みました。

その後も技術は進歩し続け、今や人工知能をはじめとする技術が次々と社会実装されています。「AIに仕事を奪われるのではないか」との言説も現れています。

「人がモノに動かされる」なのか「人がモノを動かす」なのか。何のためのオートメーションなのでしょうか。「人間を中心に考える」とは、はたしてどのようなことなのでしょうか。

シューマッハが言う「開発の真の受益者であるはずの貧しい人たち」とは、「それ自体が充実した生をもたらす労働」から疎外されてゆく労働者を指すのだとすれば、その疎外からの解放をもたらすのは「一人ひとりの顔が見え一人ひとりの行動が所属する集団に影響を及ぼし得る」程度に集団の規模を小さくすること、なのだろうと思います。

「モノではなく人間に注意を向ける」ためには、自分がその相手を認知する必要があります。限られた時間の中では、顔を合わせて対話できる人数には限りがあるでしょう。

「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」
「モノはあとから自然についてくる!」

この言葉は核心を突いているように思うと同時に、「モノではなく人間に注意を向けるためにはどのような技術が求められるのか、あるいはどのように技術と付き合っていくべきなのか?」という問いが浮かんできました。

「大量生産ではなくて大衆による生産」

この言葉は「そのモノからは、モノづくりにたずさわった人の息づかい・心づかいが感じられるだろうか?」という問いが含まれているように思うのは私だけでしょうか。

「大衆」という言葉は「顔の見えない沢山の人の集団」を想起させますが、本当は一人ひとりが、一人ひとりの豊かな表情を持っている。そのことを気づかせて頂きました。「大衆」という言葉から温度を感じとれますように。

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