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「遊びの感覚」と「細胞の連鎖」

どんな時に遊びの感覚を感じるだろう。
遊んでいる時はどんな感じがするだろう。

本を読みながら、書かれていることとは全く別の事柄が浮かんできて、一見全くつながりのないことがつながりそうな瞬間を探っている時。どこか遊びの感覚を感じている気がします。

楽団で楽器を吹いている時。練習の再現というより、本番の空気の中にある一瞬をつかまえる時。今まで想像もつかなかったけれど、あるべき場所に、あるべき音がおさまっていく感じ。

自分の周りで一緒に演奏している人との呼吸が重なり合い、その重なり合いが隣の人のそのまた周囲の人に瞬時に連鎖して……少し伸び縮みした時間と空間のなかに全員の音がピタッと収まってゆく感じ。

「目の前のことに全霊を尽くし続ける」という営みの中では、想像もつかないことですら、瞬間的な反応、相互作用を通じて全体の中に融けあってゆく美しさがある。

音楽における指揮者、奏者、観客の皆様一人ひとりが、その場をかたち作る生き生きとした細胞のように思えてくる。

遊ぶことは働くことと同じ程むずかしい事です。いや、遊ぶことの方がはるかにむずかしいのではないかと思います。

白洲正子『たしなみについて』

遊ぶ事を知らない人は、遊ぶ時に、醜悪な、往々にして不健康な遊びをしてしまいます。又、遊んでいるつもりでつい働いている人も居ます。何か理由をつけて、自分の遊びを意味ありげなものにしたくなる人もあります。
所きらわず大さわぎをしたり、ぼうじゃくぶじんに大笑いをしたり、馬鹿げた事をする人達がむしろ羨しくみえることさえあります。そして、「無意味に遊んではならぬ」などと、鹿爪らしい顔をする人達が反って馬鹿にみえたりします。

白洲正子『たしなみについて』

成人した大人にとって、世の中に遊びはなく、笑いさえもないのです。いくら遊んでも笑っても、それは真の遊び、心からの笑いではありません。しかし、その上に、ほんとうに悠々閑々と遊ぶ事の出来る大人が極く稀に居ます(居る筈と思います)。それ程遊ぶのはむずかしい事であるのです。

白洲正子『たしなみについて』

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