無条件の信頼は成り立つのだろうか。
今日はナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』より第1章「交換、贈与、借り」を読み始めました。
「見返りを求めない贈与」について。一部を引用します。
問題とするのは、もう少し個人的なかたちで、お互いに食事などに招待しあったり、世話をしあったり、あるいは贈り物をしあったりする場合である。つまり、貨幣による経済活動とは別に、私たちはそういうかたちで物やサービスを<交換>しているのであるが、そこには<贈与>と<借り>の問題が否応なく関係してくる。こうした交換をする際、私たちはどの程度、その交換が公平であることを求めるのだろうか?
たとえば、高級レストランで食事をごちそうしたのに、相手はカフェでコーヒーをごちそうしてくれただけだったら、損をしたと思うのだろうか?それとも相手との関係で、それで十分だと思うのだろうか?反対に、ダイヤモンドの指環や高級自動車をプレゼントされた場合、この贈り物にはとうてい返礼ができないと心配になって、受け取るのを拒否するだろうか?それとも相手によっては受け取れるのだろうか?誰にプレゼントされるかで、話が複雑になりすぎるというなら、一般に、ごく普通の友人から、どのくらいのプレゼントなら、返せるかどうか気にしないで安心して受け取れるのだろうか?
だが、そうなると、先程疑問を呈したように、「その交換にはどの程度の、どんな種類の公平性が求められるのだろうか?」ということが知りたくなってくる。(中略)そして、このように、<交換>、<贈与>、<借り>を同時に考察しようとしたとき、私たちの頭にはさまざまな問いが浮かんできて、その問いの複雑さに当惑せざるを得ない。だが、これが複雑であることはしかたがない。この三つが絡みあったシステムは、「人間関係が持つ複雑さ」をそのまま反映しているからだ。
「こうした交換をする際、私たちはどの程度、その交換が公平であることを求めるのだろうか?」
日常生活の中で互いに何かをしあうこと、どれだけあるでしょうか。本書の例にあるように、食事に誘ったり誘われたり、何かを贈ったり贈られたり。
もし相手に対して、不公平感や残念さを感じることがあるとすれば、それはなぜなのでしょうか。
相手に対する何かしらの「期待」が形成されていて、その期待を下回る時に不公平感や残念さが生じるのではないでしょうか。とすれば「相手への期待はどのように形成されるのか」という問いが浮かんできます。
「相応のお返しができる」ことが「人から信頼される条件」となっている。
「恩と返礼」によって成り立っているような信頼関係というのは本当に信頼と呼べるのでしょうか。
「贈与と借り」を考える上で「信頼とは何だろう?」という問いに向き合う必要がありそうです。
相手から何も返されないとしても成り立つような信頼関係が見出せるなら、「無条件の信頼」と呼べるような関係が成立するのなら、そこには「見返りを求めない贈与」も成り立つ気がするのです。