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「こちら側」と「あちら側」、そして自他未分〜車窓から眺める景色の流れ方を通して〜

「車窓の景色を眺める」

このように書くと、車両の進行方向に対して左右に配置された窓(あるいは天窓)を通して眺める景色を思い浮かべるかもしれない。

もう一つ。

先頭車両に配置された運転席の向こうに広がる景色もまた、車窓から眺める景色である。

車両は進行していて、車両の「向こう側」に広がる景色に対して自分が近づいているけれど、いつしか景色に心を奪われて自分の存在が意識されなくなると、むしろ景色のほうが「こちら側」に近づいているような感覚になる。

こちら側から向かうのか、あちら側から近づいてくるのか。

「運動は相対的なもの」であるという実感が湧いてくる。

自分と外側の区別が「意識されている」状態は「こちら側の運動」に、自分と外側の区別が「意識されない」状態、つまり没入している状態は「あちら側の運動」に対応していると思うと、なんだか心がスッと晴れ渡るような、爽やかな気持ちになる。

一方向に流動する連続一体な水が空間に在る様は、その空間を「方向づける線」を指向する。(中略)ナイアガラ瀑布は、すさまじい勢いで「激しく流動する水」であった。その激しさは、姿だけでなく、音や触刺激を伴って伝わってきた。激しく流動する水が、観察者に向って流れ来る様は、人を「襲ってくる水」を指向する。(中略)大自然のたけり狂う水は、巌も山も「押し流す水」である。(中略)これに対して、激しく流動する水が、観察者の足元から離れてゆく様は、人を「引き込む水」を指向する。

鈴木信宏『水空間の演出』

「襲ってくる水」や「引き込む水」を想起するとき、観察者は流動する水の、激しい勢いと、観察者に対する流水の方向に着目している。その時、観察者と水との距離は、水しぶきのかかる距離にあった。そして、これらの水のイメージには、恐ろしさや、不安の感情が伴っていた。ところが、この同じ水に対して、この感情とは対照的な、美しさ、力強さ、あるいはたくましさといった受容的な内容を伴ったイメージが想起された地点があった。その地点から水までの距離は数十メートルであった。これは、しぶきのもはや、届かない距離である。そこでは、流水の勢いと、方向に対する感覚は薄れ去っていた。

鈴木信宏『水空間の演出』

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