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充ち満ちるための基盤としての「空」〜過去と現代における空腹感の違いへの想像をもって〜

「適度に空腹感をつくる」

人それぞれ、一日の中で食事のペースがある。

いつどこで、誰と何を食べるか。どのぐらいの量を食べるのか。

医学や栄養学などの様々な学問的な背景に下支えられた、「バランス」をとるという観点で望ましいペースはあるのだと思う。

が、そうした学問が発展する以前は、どのように望ましいペースを見出していたのだろう、という問いが降りてくる。

いつからか「食べたいときに食べる」ことよりも「空腹を感じるまで待つ」ことが大切なのではないか、と思うようになった。

現代に生きる自分自身も「お腹が空いたから食べている」はずなのだけれど「本当に空腹を感じているのだろうか?」と思うことも少なくない。

飽食の時代における空腹感と、食が希少・貴重であった時代における空腹感は全くもって違うのではないだろうかと想像する。

「真に空の状態」があるからこそ、身体の隅々にまで広がり充ち満ちてゆく実感を得られるのかもしれない。

二空間に介在して視界を横切って見える水が「二空間を分離するもの」となることがある。(中略)貴船の川床の下を流れる水は、単に納涼のための水に留まらず、人が遊宴する川床の単位を、互いに分離する水でもある。壁をめぐらさずとも、流れの上の席は、水によって互いに他の席と隔てられ、他の人が侵すべからざる水上の個室となっている。(中略)平安文学には「へだてるもの」としての水のイメージがある。『源氏物語』には、「山風にのって霞を吹き解く楽の音が聞こえてくるが、はるか遠くの白波は私どもを隔てているように思われ…….」とある。また、池の水は舟を雑音から隔て、孤独になる空間をつくり出すものであった。

鈴木信宏『水空間の演出』

空間の一部分に配置された連続一体な水が視界内におさまって見えるとき、それは「空間をまとめる水」を指向する。(中略)それ自体が「均一」であり、「他を単一化する元素としての水」の実体をとらえたバシュラールは、「その外観の多様性にもかかわらず、水の詩学は統一性を保証されている」という。

鈴木信宏『水空間の演出』

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