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「何を選ぶか」ではなく「何を選ばないか」

今日は、三谷龍二さん(木工デザイナー)他による書籍『生活工芸の時代』より「道売りと小屋」という節を読みました。

三谷さんは、二〇代の頃に劇団を辞めて露天商(道売り)のような事をして暮らしていた時期があったそうです。現在「小屋暮らし」をされておられる三谷さんは、道売り(露天商)のように一つひとつを「ていねいに」受け止めて暮らしていきたいとの想いがあり、本節の表題がつけられています。

それでは、一部を引用してみたいと思います。

小屋を作るにあたって、僕が建築家の中村好文さんにお願いしたのは、「ひっそりと、ひと一人が住む小屋」というものでした。その時、そんな風に住む場所が必要だったからですが、でもせっかく作るなら、試してみたかったことも僕にはありました。
それは、これから自分がものを作っていく上で、ひとの暮らしにとってなにが必要で、なにが必要でないかを、自分の身体や暮らしを通してリアルに知りたい、ということでした。基本的な機能以外をもたない小屋の生活は、やはり簡素を旨としますから、その生活空間にうまく馴染まないものは、無意識のうちに外れていくことになります。それを最小限住宅に暮らし、その生活実践の場から掴みたいと思ったのでした。
ある日、骨董店で欲しいと思う壺に出会いました。でも、やはり家が狭いですから、大きなものはまず躊躇するんですね。そして置かれた様子を想像してみる。置き場所、その周りの空間の余裕、それに小屋の内部の簡素さに似合うのか、などと思い浮かべてみるのです。そうすると多くの場合、考え直すという結論になってしまうのでした。でもそうした結論になるのは、ただ狭さばかりが理由ではない。小屋の暮らしにそれが必要かどうか、篩にかけられているのだと思います。そしてその判断を下すのは自分というより、小屋が答えを出してくれたような感じがあった。なんだか自分が小屋にしつけられているような、そんな実感だったのです。

「ひとの暮らしにとってなにが必要で、なにが必要でないかを、自分の身体や暮らしを通してリアルに知りたい」

この言葉がとても印象的です。

三谷さんは、生活の起点となる家を「簡素な小屋」とすることで、その小屋が「暮らしのモノサシ」となり、人の暮らしに馴染むものを篩(ふるい)にかけるということをなさっています。

「自分の暮らしにおいて、本当に必要なモノ・コトは何だろう?」

この問いの答えは、自分の価値観や置かれている状況や環境によって変わるのではないか、と思っていました。「いかに取捨選択するか」という判断の軸を自分の内側に置くのではなく、「生活空間」という自分の外側に置く。そのことが私にはとても新鮮でした。

「生活空間」をモノサシとする。そして「生活空間」を小さくすることで、「あれもこれも」が許されない状況が生まれ、生活空間に融けこむモノだけが自然と選択される。「小さいこと」を前向きに捉える意味があるように思います。

「何を選ぶか?」ではなくて「何を選ばないか?」を生活の中心に据える。そして、残ったものを見つめ直し、自分の内側の価値判断の軸としていく。

「道売り」も「道ばた」という限られた空間の中だからこそ、自分が本当に共有したいとものを厳選して並べることが重要なのだと思います。

「どのような制約を自分に課すべきか?」という問いは、案外忘れられがちではないでしょうか。

そしてその判断を下すのは自分というより、小屋が答えを出してくれたような感じがあった。なんだか自分が小屋にしつけられているような、そんな実感だったのです。

あらためて読み返すと、この一言が胸に残ります。


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