知識、文脈、そして情報〜未知から"生きた"既知へ〜
普段の生活で何気なく使っている「情報」という言葉。
ある人にとっては「情報」でも、別の人にとっては「情報」ではないということがあるだろうか、という問いを考えてみます。「そもそも情報とは何か」という問いは情報という言葉を定義するもので一旦ここでは脇に置きます。
じつは「役に立つ・立たない」あるいは「意味がある・ない」という前提が隠れていて、(役に立つ・立たない)情報、(意味がある・ない)情報という分類の中で、あるい人にとっては情報である(=役に立つ・意味がある)が、別の人にとっては情報ではない(=役に立たない・意味がない)ということが起き得るのではないか、と思います。
「役に立つ・立たない」あるいは「意味がある・ない」の分岐点は「知識」や「文脈」かもしれません。
既に知っていることであれば、出来事・物事を解釈して(役に立つ・意味のある)情報として捉えることができる一方、未知の出来事・物事を情報と捉えることは難しいかもしれません。
それでも「きっと何かを伝えようとしているんだ」と理解、解釈に努めようとする姿勢なくして、未知の出来事・物事を「生きた既知」へと変換することは叶わないのだと思います。
「生きた既知」に変換されるタイミングはいつ訪れるか分からず、遠い遠い未来の話かもしれませんが、突如として霧が晴れるように見通しが良くなる瞬間の訪れを、誰もが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。