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ありのままを受け取るということ

今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「孤立分断的記述について」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。

デカルトによる学問の方法においても、「私が吟味する問題のおのおのを、できる限り多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと」(『方法序説』)、として分析の重要性が強調されるのだが、総合の困難性にはわりに無頓着だったように見える。
先に触れたM.ポラニーは、「暗黙知」の存在論的対応概念として「創発」という概念を提唱している。たとえば、囲碁というゲームを考えてみると、そのルールに関する知識が個々の対局の行方を教えることはない。要素と全体との関係は、ルールと具体的ゲーム展開の関係とはずいぶん違うようにも思えようが、後者が前者に依存しながらも前者のみからでは説明されない何かを含んでいる、という点で共通している。その「何か」が創発性である。
しかしながら、科学描写に適した対象は打ち手に関するルールだけでは決してない。数々の具体的な対局を注意深く見てきた人には、それらを貫く別種の普遍性があることもわかるだろう。まず、一群の打ち手のパターンである定石や、「形」すなわち繰り返し現れる石の配置パターンがある。「厚み」のある形や「味の悪い手」になると多分に「暗黙知」を含んでいて、明確な記述がしだいに困難になるが、それでも何らかの特徴が抽出できれば決して表現不可能ではあるまい。

どうすれば「何か」を理解したことになるのでしょうか。
「何か」を理解するためには、何をどのようにすればよいのでしょうか。

物事を細分化するということ

いくつもの要素が複雑に関連している問題や物事に直面して「何をどうすれば全く想像がつかない...」という状況に陥ったことは、誰しもがあるのではないでしょうか。

かの有名な哲学者ルネ・デカルトが述べた言葉として「私が吟味する問題のおのおのを、できる限り多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと」が本書でも取り上げられていますが、英語では以下のようになります。

「Divide each difficulty into as many parts as is feasible and necessary to resolve it.」

全体をまとめて考えることは難しいので、まずは小さな部分に分けて色々と具体的に試しながら糸口をつかんでゆく。その小さな部分に関する特徴や振る舞いが分かったら、他の小さな部分に取り組んでゆく。全ての小さな部分に関して理解できたら、それらを合わせれば全体を理解したことになる。

たしかに細部に分割することは、何かを理解する上ではとても有用ですし、私自身も日々実践しています。細分化したくなる気持ちはわかります。

では「何でも最初から細分化すればよいのか」というと、そういうことでもないような気がするのです。

ありのままを受け取るということ

囲碁の例を通して語られた「創発」という言葉がとても印象的なのですが、どこかぼんやりとしています。

料理を味わったり、絵画や音楽を鑑賞するときを想像してみました。

「料理」を切り出してみると、素材(食材、調味料)が組み合わさっているだけでなく、盛り付ける器、その料理が並ぶ環境なども含めて一皿の料理が成立しています。

「料理を味わう」という体験は、はたして「舌で味わう」「目で味わう」「鼻で味わう」という個別の体験の総和なのでしょうか。

まずは素材や器などが一体となって生まれた「世界」があって、ありのままの全体を全体として受け取っているような気がするのです。

「絵画」を切り出してみると、描かれている対象、使われている画材、その絵画が収まっている額縁、その絵画が配置されている環境(照明など)などが、鑑賞対象としての「絵画」を成立させています。

「絵画を楽しむ」という体験は、はたして「描かれている対象を鑑賞する」「描かれている背景を鑑賞する」という個別の体験の総和なのでしょうか。

まずは描かれた要素が一体となって生まれた「世界」があって、ありのままの全体を全体として受け取っているような気がするのです。

「音楽」を切り出してみると、奏者、楽器、楽譜、演奏環境、視聴環境などが、ひとつの音楽を成立させています。

「音楽を楽しむ」という体験は、はたして「奏でられる音の一つひとつを聴く」「一つの楽器の音を聴く」という個別の体験の総和なのでしょうか。

そこには、音のまとまりとしてのフレーズ、複数の楽器の音が重なり合って生まれるハーモニー、主旋律と対旋律の重なりがあったり。

それらの要素が一体となって生まれる「世界」がそこあって、ありのままの全体を全体として受け取っているような気がするのです。

料理や絵画や音楽のいずれについても、最初は「食べられればよい」「書き記せればよい」「リズムを合わせればよい」というところから始まっているはずです。

そして、創意工夫を重ねてゆく中で、形式的に表現し難い部分を含んだ「美味しい組み合わせ」や「美しい組み合わせ」が、無限の余白を埋めるように自然と見出されてきたということ。

それが「創発」ということであって「形式的に表現し難い部分(暗黙知)」は、全体を細分化することからは見出せないような気がするのです。

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