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「体取する」ということ。(何かがわかるとは一体どういうことだろう?)

日常生活で「わかる」という言葉を何気なく使っているけれども、はたして「何かがわかる」とは一体どういうことだろう。たとえば、親しい誰かと会話をしているとする。言葉に耳を傾けながら、相手が何を考えているのか、どのような気持ちなのかを「わかる」ことはできるのだろうか。

日本を代表する数学者である岡潔先生の著書『数学する人生』を読み重ねると「何かがわかるとはどういうことか?」という問いに対して思い巡らせるためのきっかけとなる言葉が散りばめられている。

 しかし、今言おうと思っているのはそれではない。たとえば他の悲しみだが、これが本当にわかったら、自分も悲しくなるというのでなければならない。一口に悲しみといっても、それにはいろいろな色どりのものがある。それがわかるためには、自分も悲しくならなければ駄目である。他の悲しみを理解した程度で同情的行為をすると、かえってその人を怒らせてしまうことが多い。軽蔑されたように感じるのである。

『数学する人生』(岡潔、森田真生編)

まず「悲しみがわかるとはどういうことか?」という問いについて触れられている。岡先生は「悲しみがわかるためには、自分も悲しくならなければ駄目である」と述べ、これは「悲しみを理解する」とは異なる次元の分かり方である。「わかる」と「理解する」は違う。

わかると理解するは何が違うのだろうか。それは「主観」と「客観」という観点の違いと言えるかもしれない。「理解する」とは観察する対象と自分を切り離した上で、対象に内在する特性や状況などを可能なかぎり客観的に、つまり、誰もが同じ解釈に至るような捉え方を意味している。一方、「わかる」とは自分と対象を切り離さず、自分が対象と一つに「なりきる」ことに近いように思う。

 これに反して、他の悲しみを自分の悲しみとするというわかり方でわかると、単にそういう人がいるということを知っただけで、その人には慰めともなれば、励ましともなる。このわかり方を道元禅師は「体取」と言っている。ある一系のものをすべて体取することを「体得」すると言うのである。
 理解は自他対立的にわかるのであるが、体取は自分がそのものとなることによって、そのものがわかるのである。

『数学する人生』(岡潔、森田真生編)

上で述べた「わかる」という営みを岡先生は「体取」と表現する。体とは「主体(自分)」と「客体(対象)」に共に含まれる文字であるが、それは「存在」という言葉に近いかもしれない。自分という存在と相手という存在を重ね合わせることで、その心を得る。

わかる対象は何も人や目に見える物だけでない。美しい音楽に耳を澄ませるとき、いつしか音楽の調べの中に自分が融けてゆき、「音楽を聴いている」という自分の存在、意識は薄れてゆく過程は「音楽を体取している」と言えるように思う。

 するとその尼さんはすぐにわかって、次のような面白い例を聞かせてくださった。幼稚園の子供たちにはまだ花の美しいことはわからない。しかし一人だけわかる子がいる。その子はよく私になついていて、私が花を植えるとそれを手伝う。花がつぼみをつけて少し色が見えてくると、すぐに見つけ、大騒ぎをして知らせにくる。花が美しいことをわかっているのである。しかし、ここへは時々娘さんたちがお花を習いにくるが、その人たちには花の美しさはわからない。

『数学する人生』(岡潔、森田真生編)

ここで引用した言葉の裏側にあるのは「花の美しさがわかるとはどういうことだろう?」という問いである。花を習う人には花の美しさはわからない。花の気を配り、花の些細な変化が自分のことのように嬉しい。花が咲く中に立ち現れる「生き生きとした喜び」が自分のことのように嬉しい。美しさを理解するのではなく、「美しさを体取している」のである。

日常生活の中で何かを「体取する」機会がどれほどあるだろう。あらためて我が身を振り返り、「理解する」よりもまず先に「体取する」ことを心がけていきたい。そのように思った。

では、「体取するとはどういうことか?」という問いについて、最後に書籍で紹介されている道元禅師の言葉を引いて締めくくりたい。

聞ままにまた心なき身にしあらばおのれなりけり軒の玉水

『数学する人生』(岡潔、森田真生編)

どのような情景が思い浮かんだだろうか。その情景が思い浮かんでいる時、その瞬間は自分の意識、自我はどこか遠くへ行ってしまったのだとしたら、まさに自分自身の心が肉体を離れて、軒先から落ちる雨垂れと一つになっていたこと、つまり「雨垂れを体取している」ことの証左なのだと思う。

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