見出し画像

日々の生活に、即興を。

ミゲル・シガール氏による書籍『プレイ・マターズ - 遊び心の哲学』を読みました。今日は「遊びと文脈の流用」について。「1章 遊び」より一部を引用してみます。

[第三に]遊びは流用的である(appropriative)。遊びが流用的であるというのは、遊びはそれが生じる文脈を乗っ取って成り立つものであり、そうした文脈によってあらかじめ成り行きが完全に決められることはありえないということである。
ゲームであれおもちゃであれ、遊びに使われるものは、たんに遊びの小道具でしかない。遊びに使われる物のデザインに[もともと]どんな意図や意味が込められているかに関係なく、遊びにおいてはつねに、わたしたちはそこに巻き込まれる物に対して遊びの文脈に即した意味づけをしてしまう。遊びは、そこで使われる物を流用することによって成立するものなのだ。

「文脈を流用するとはどういうことだろう?」と考えると、「〇〇ごっこ」という言葉がまず頭に浮かびました。

実在する、あるいは架空の人や物になりきってみる。幼少期などに「〇〇ごっこ」をして遊んだことがある方も多いのではないでしょうか。

かくいう私もその一人なのですが、「ごっこ遊びの何が面白いかったのか」と記憶をたどると「少しずつ設定が追加されていくこと」だったのかな、と思います。

たとえば、「正義の味方と悪役」という設定で外でごっこ遊びをしていると、道に落ちている木の棒が武器に様変わりしたり、「そんな技あったっけ?」という謎の技が知らぬ間に追加されてたり。

身のまわりにあるものすべてが想像を膨らませる素材になっていて、新しい意味づけを繰り返す内に遊び始めた頃には想像できない展開が待っていて、それが楽しくてたまらなかったんだと思います。

あらかじめ決められたルールや設定を余すところなく活用しようとするのも面白いのですが、「これってこんなことに使えるのではないか?」と即興的に組み合わせて何かを作っていくのもまた面白いですよね。

日々の生活に、即興を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?