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試し続ける中に変化を自覚する〜余白、余事象〜

まずは試してみる。

試してみたら、試し続けてみる。

試し続けているうちに、少しずつ変化が現れてくることもあれば、何も変化していない(と感じているだけで、じつは変化している)こともあるかもしれない。

変化に気付く、自覚するまでに時間がかかる場合もあれば、劇的な変化としてすぐに意識できる場合もある。

変化を自覚するとき、同時に変化が起こる前の自分を再発見する、出会い直している。

たとえば、軽い有酸素運動をして気分がスッキリする、あるいは身体が軽く感じられるようになったとすれば、同時に「身体を重く感じていた」ことを自覚することにもなる。

最初から「(現象的な)身体の重さ」に気付いていたのか、と言われれば、そのようなことはないはず。

行動を繰り返し続けていると、あるいは何かの状態が続いていると、やがて一種の「定常状態」に入ってしまう。

その定常状態が望ましいものであれば良いかもしれないけれど、定常状態が望ましくない場合は「安定を維持しようとするあまり、不安定になる」こともあるかもしれない。

反復する中に少しばかりの変化、差異を織り交ぜてゆく。

幾許かの不安定、ゆらぎを作りながら、不可視な世界の中心軸、重心、空白を探り続けてゆく。

それは、一筋の水の流れにいくつもの流れが重なり合わさり、やがて大きな川になってゆくようなものかもしれない。

「流れている」という一つの「秩序」は、様々な方向に向かって流れようとする「無秩序」な流れの重なりあい(時にぶつかり合い)の共通部分として現れるような、そんな感覚。

真理や本質というものと、どのように向き合うのか。

それらが存在することを前提に、確定的に捉えようとするよりも、あり得る可能性、あるいは余白、余事象として浮かび上がってくるものをすくい取るように集めてゆきたい。

そのような態度には「多様で生々流転とする真理」の許容も含まれているとも言えるかもしれない。真理は一つとはかぎらないかもしれないのだから。

そのようなことを思った。

真理が開け開けと伏蔵との原闘争として生起するかぎりでのみ、大地は世界中のいたるところに突出するし、世界は大地の上に基づく。しかし、真理はどのようにして生起するのだろうか。われわれはこう考える。真理は少数の本質的な仕方において生起するのである、と。真理が生起するこうした仕方の一つが作品の作品存在である。一つの世界を開けて立て、そして大地をこちらへと立てながら、作品は、あの闘争を闘わせることなのである。この闘争の中で、全体としての存在するものの不伏蔵性、つまり真理が闘い獲られるのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

神殿がそこに立つことにおいて真理が生起する。このことは、そこで何かが正確に表現され、再現されているということを意味するのではなく、全体としての存在するものが不伏蔵性にもたらされ、その内に保たれているということを意味する。保つ〔halten〕とは、根源的には守る〔hüten〕ことを意味する。ゴッホの絵画において真理が生起する。このことは、そこで何か目の前にあるものが正確に描写されるということを意味するのではなく、靴の道具存在が明らかになることによって全体としての存在するもの、つまり抗争している世界と大地とが不伏蔵性に到達するということを意味する。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』


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