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自然界ではヒエラルキーによる意思決定が機能しない

今日は『植物は<未来>を知っている 9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』(著:ステファノ・マンクーゾ 他)から「古代アテネの民主制」を読みました。

動物は明確な「臓器」を持ち、それらの機能を指令センター(脳)が統合して生命を維持している。一方、植物には明確な臓器を持たず、生命の維持に必要な機能が至るところに分散している。

植物の特徴は「モジュール構造」に表れている。切り離されたとしても、切り離された部分からまた根を生やして生命を維持することができる。独立した小さな群れの集合体のような存在。その集合体が情報伝達をスムーズに行って、環境に適応していきます。

アテネの民主主義の最高決議機関は、いわゆる民会(エクレシア)で、すべての十八歳以上の市民で構成される。立法と行政に関しては、基本的に多数決で決められた。いいかえれば、アテネの民主主義は直接民主主義であり、仲介者を通さず権力を管理する。これが私たちになじみのシステムと大きくちがっている点で、今日の私たちの民主主義は、より正確には《代表制民主主義》と呼ばれている。

組織や共同体。全体として何かを決めなければならない場合に、どのように物事を決めるのが良いのだろうか。それぞれが意見を表明するのか、代表者に委ねるのか。

古代アテネでは直接民主主義。参加主体が増えて多様な意見が集まることで環境を多面的に捉えた意思決定ができるはずです。少なくとも、植物や社会性昆虫の世界においては直接民主制が機能しています。

こうして、事柄が専門的技術に属すると思う場合には、彼らはこのような態度をとるわけですが、これがひとたび、何か国事の処理を審議しなければならないような場合となると、大工でも、鍛冶屋でも靴屋でも、商人でも船主でも、貧富貴賤を問わず、だれでも同じように立って、それらについて人々に向かって意見を述べます。(中略)ほかでもない、これは明らかに、人々はそういう事柄を、教えられうるものとは考えていないからです。

古代アテネの民主制度では、専門的技術に関する話に及ぶ場合は専門家に委ねていました。もし「専門家」と見なされない場合は、壇上から引きずり降ろされたそうです。

一方、国事に関しては誰もが自由に意見することができた。そもそも「国事」は教わることのできない、つまり「国事」の専門家は存在しないという前提が置かれていたようです。

一方、代表制民主主義では「政治家」と呼ばれる仲介者が存在するわけですが、直接民主主義の前提と重ねると「政治の専門家」と捉えることは正しくないのかもしれません。

少数が権力を握っている寡頭政治は、自然界ではめったに見られない。(中略)重要なのは、こうしたヒエラルキー構造は自然界ではうまく機能しないという点だ。自然界においては、指令センターをもたない広く分散した組織こそ効率的なのだ。

「少数が権力を握るようなヒエラルキー構造は自然界ではうまく機能しない」との著者の言葉を受けると、IT技術を活用しての直接民主主義の復興を目指すべきしてもよいのではないか、という気がます。

もちろん、乗り越える課題は多々あると思います。また、代表制民主主義も人口増加などの環境変化から発展してきたシステムですから、一定の役割をはたしていることは間違いありません。

(世界的に見れば格差は存在しますが)物質的充足が満たされ様々な情報が瞬時に手に入るようになり、価値観も多様化しています。古代アテネのように「国事は教わることができない」という前提のもと、国に関して開かれた議論を形成する。それは技術的に実現できるように思います。

その上で自然から学ぶべきは「どのように意見を統合するのか?」という点にあるように思います。

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