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目には見えない流れをつかまえる面白さ

ミゲル・シガール氏による書籍『プレイ・マターズ - 遊び心の哲学』を読みました。今日は「遊びとルール」について。「1章 遊び」より一部を引用してみます。

[第一に] 遊びは文脈に依存する(contextual)。遊びに対するよくある理解では、遊びの文脈とは、ルールによって正式に範囲が定められた空間と、遊びのコミュニティだとされる。しかし、実際のところは、遊びの文脈はもっと複雑だ。遊びの文脈は、人間、ルール、話し合い、場所、物からなる乱雑なネットワークである。遊びは、人、事物、空間、文化がもつれあう世界のなかで行われる。
ここで言いたいのは、遊びはルールから生まれ、ルールによって媒介され、ルールを通して位置づけられるということだ。ルールは、遊びがどこで行われるか、いつ遊びが終わるか、どんな場合に文脈に戻ることができるか、といったことを定める。ルールは、紙切れに描かれることもあれば、数行のプログラムコードで書かれることもある。(中略)さらに、ローカルルールのように、歴史と場所によって維持されるルールもある。
ルールについて議論し、ルールを解釈することは、遊びの活動のなかで決定的に重要な部分である。ルールに関する話し合いは、遊びの文脈を強固なものにする。ルールを考え、操作し、変更し、適合させること。これらは非常に重要な遊びの構成要素だ。遊びの文脈を支えるものとしてのルールは、個々の状況において生じる必要性に対処するかたちで、遊びの最中に変わっていく。

「はたしてルールが存在しない遊びはあるのだろうか」
「遊びのルールは、いつどのようにして生まれるのだろうか」

文章を読みながらこんな疑問が湧いてきました。

「遊びは文脈に依存する(contextual)」

たしかにそうかもしれないと思いました。

文脈というのは文字どおり「文章」の「脈」つまり、流れやリズムのこと。

遊びは文脈に依存するというときの文脈は、個人で遊ぶ場合は「きっかけ」や「その場の時間の流れ」だったり、複数人で遊ぶ場合は「互いに共有している暗黙の了解」だったり。もし遊びに文脈が存在しなかったら、そもそも遊びは成立しないような気がします。

たとえば、私は数学の証明問題を解くことにちょっとした「遊び」の感覚があるのですが、それはなぜなのだろうと考えると「証明の過程(=論理)に筋が通っていれば、様々な証明方法からどれを選択してもよい」という自由があるから。

それらは暗黙の了解(ルール)でもあり、どの証明方法を選ぶかによって、証明の流れが簡潔になったり、複雑で分かりにくくなったりするからこそ、「どの解法を選ぶか」「どのように進めるか」という面白さが生まれます。

また、ルールは明示されている場合もあれば、暗黙的なこともあるわけですが、得てして大事なことというのは、書かれていないこと、語られていないことの中にあるような気がします。

たとえば、数学の図形の問題であれば、問題には書かれていない「補助線」を見つけたり、角度と長さの関係を見つけたり、あるいは図形そのものが、他の図形に埋め込まれていたり。

問題からにじみ出てくる「作者のメッセージ」を読み取るのが面白かったりします。

「遊びの文脈を支えるものとしてのルールは、個々の状況において生じる必要性に対処するかたちで、遊びの最中に変わっていく」

ルールは変えるきっかけとなるのは、見えない流れ・暗黙の前提を見つけることから。そんなことを思いました。

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