人生を復讐劇にしてはいないか?
この一文を見た時、ハッとした。
私の人生は復讐劇になってはいないだろうか、と。
そして気づいた。
復讐劇にこそなってはいないが、勝敗に固執していることは明らかだということに。
私は昔から、負けたくないという思いが強すぎる。私の”それ”はバスケットの試合などの単純な勝敗に対して強烈に向くことはない。
世の中の不条理、ジェンダーや既往歴などそういったものに強く向く。
今だってそうだ。
癌になり抗がん剤治療をしたことで一旦は寛解(完治の一歩手前)になったとはいえ、たくさんの制約がつく生活にあらゆる場面で嫌気がさす。
だが、それでやめたら自分に負けた、病気に負けた、環境に負けた、世間に負けたような気がして悔しい。絶対に負けたくないと強く思ってしまう。
これはいつか自分を滅ぼすような気がする。いや、絶対に滅ぼすことになる。そう思う。
少しだけこれに似た経験を高校生の時にしたことがある。
私たちの世代は東日本大震災を経験し、たくさんの支援を受け、普通ではできない経験をたくさんさせてもらった。故に「お前たちには責任がある」とも言わることもあった。
他者からの期待や責任も、自らに課した義務感や正義感も、色々なものを背負いすぎた時、「あー疲れたな」と思って全部辞めたくなった時がある。
その時に考えた。自分はなんでこれらの活動をしているのだろうか。
たどり着いた答えは単純なものだった。
結局どれも自分がやりたかったからやっている。ただそれだけだった。
忙しさ故なのか、未熟さ故なのか、自分でやると言ったにも関わらず、やらされていると感じてしまっていた。さらには、みんなは遊びに行っているのに私は遊びにもいけない。などとお門違いな方向に思考が巡ってしまっていた。この時に、自分が何を理由に動いているのか、その中心は、義務感や義理人情ではなく、自身のやりたいという気持ちであるべきだと気づいた。でないと大変になった時、心底しんどくなる。
この経験があるからこそ、この世の中に対する負けず嫌いが暴走して悪い方向に働いてしまうのではないかと危惧せずにはいられない。
責任感や正義感、負けず嫌いなどの心情は良い物ではあるが、それが中心であってはいけないのだと思う。
これらは肥料であって苗そのものではないのだから。
肥料は与えすぎると苗が腐ってしまうし、少なすぎても育たない。
絶妙なバランスとタイミングが重要なのだ。
ここからは反省、自信への戒めである。
私は違うと思ったことに対してすぐ意見して、しかもそれを割と譲らなかったりする。物事の本質や効率みたいなところをみすぎてしまうきらいがある。いわゆる論破癖みたいなものもれなく持ち合わせている。負けず嫌いともちょっと違う、正義のおしつけとでもいうだろうか。
昨日も図書館で掲示板を見ていたら気になる講演会のポスターがあったので写真を撮った。すると職員がやってきて「写真はダメです、撮らないでください。」と言われた。最初はこのポスターが外に出てはいけないものだったのかと思い謝ろうと思ったが、そうではなく、館内の規定で写真を撮る行為がダメだという話だった。規定・ルールだということはわかったが、ではどうやってその掲示板の案内情報を持って帰ればいいのか、いささか不思議だった。聞くと、「メモでもしてください。」と言われ、誰もが携帯を持っている時代に?ちょっと気になったから写真を撮って後で調べようと思うレベルでわざわざメモなんて取らないと思った。集客するためのポスターが意味を成していないなんて、こんなの本末転倒だとも思った。そう思ってしまったら「それって意味なくないですか?」どっ直球でそう言ってしまう。違和感を唱えずにはいられない。意見をいうこと自体が悪いことだとは思っていないが、伝え方が悪いなといつも後から思う。図書館にも図書館の都合があるのもわかる、本を写真に撮られるのは良くないから写真自体を禁止しているのだろう。でも係員のいる窓口の真ん前で、あたりに本はない状況で、なおかつ手にも本は持っていない上、カメラの音も消さず、明らかにポスターを写真に収めているのがわかる状況でもダメな理由はなんなのかやっぱり不思議だ。
負けず嫌いや正義感のような心の肥料は用法容量を守って付き合っていきたい。
私はまだまだ未熟者だ。精進あるのみ。