奈良時代考
古本屋えりえなというYOUTUBEアカウントの人が述べている仮説に天武天皇=則天武后、文武天皇=文武王説というものがある。
戦争が起きて勝った国は負けた国をだいたい占領しにくる。
663年の白村江の戦いの後、唐と新羅が日本に進駐し征服王朝を作ったと考えると、平城京を古墳を破壊して建設したことや天武天皇と天智天皇の説明のつかない関係がはっきりとするという。
平城京を発掘調査すると古墳の遺構が存在することがわかっている。
固関の初見記録は元明太上天皇崩御の時であり、固関された三関を設置したのは天武天皇とされる。
皇統をみると天智天皇と天武天皇には血縁関係がないと推定されており、京都にある皇室の菩提寺の泉涌寺がそうだが皇室の祭祀でも天武天皇の血脈の祭祀をしておらず、天智天皇の血脈は光仁天皇、桓武天皇に繋がる。
三関は天武天皇が設置し桓武天皇が一旦廃止している。
唐と新羅の征服王朝の時代は70年ほどだったであろうと古本屋えりえなは述べており、その時代はほぼ奈良時代と重なる。
私は以前から奈良時代はなぜ70年という短い期間なのか疑問に思っていた。
白村江の戦いで成立した征服王朝が平城京を建設し70年経った後に王朝交代したので長岡京、平安京に遷都したと考えると、固関の記録を見た時に奈良時代に色濃い軍事的理由の意味とは、天智天皇系の国が倭国で天武天皇系の国が日本であり、戦争に負けた国は国号を変える。その日本と倭国という2つの隣国が三関を国境として併存して、倭国の西半分は占領されて日本になったのではなかろうか。
天武天皇の時代に国号を日本に変えたのも、古墳を破壊して平城京を建設したのも天武天皇系の国の日本が征服王朝だからではなかろうか。
固関の記録の中に称徳天皇の紀伊行幸というものがあり、三関が日本と倭を隔てる国境ゲートであったので、日本の都に天皇が不在となる行幸の時に固関して国境を閉じたのではないかと推定される。
奈良時代は天武天皇系の唐と新羅系の征服王朝の時代だったのではなかろうか。
注 HindyQuestの引用は筆者との議論で筆者が採録したものである。
平安時代に五位の公卿以上は三関の東に行くことを禁止される。