小学生時代に始まったバチについての考察。40年を経て完全バチスルーを見極めるまでになった。。。
「ちゃんとしないとバチがあたるよ」という言葉を、小さいころから刷り込まれてきたわけなんだけど。
その刷り込みが無意識のレベルで自分を規定するスーパーエゴとなって働いている。。。ですよね、フロイト先生?
小学生のころからバチについていろいろ考えてきた。
バチ、バチって言うけど、オレにバチ(罰)をあたえる主体ってだれなのよ? って。。。
なんとなく、宇宙を運営しているカミサマ的存在?。。。人格があると仮定した場合。。。
あるいは、宇宙を貫く法則であるカルマ的存在?。。。人格のない法則であると仮定した場合。。。
そういうのがバチをあたえるのかなあと思っていた。
今日の聖書の言葉。
中学生になって聖書を読み始めた。。。読み始めた当初は、あー、バチをあたえるのは「神」なんだと単純に思った。
神は宇宙を創造し・保持し・統治しているわけだから、バチをあたえるのにまっとうな立場を持つ無二の存在だよな、と感じたんだ。
ところがね。。。
聖書をずーっと読んでると、バチに関する聖書の図式はそんなに単純ではないなあということが、だんだんわかって来た。
目からウロコの経験をしたのは、オスカー・クルマン『キリストと時』、ヘンドリクス・ベルコフ『キリストと諸権力』、ジョージ・ブラッドフォード・ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』、清水義樹『教義学講座』を読んだときだ *。
それらが言っていることを 10項目で要約すると。。。こういうことになる。
1.人間は「神」から離れると、欲望が暴走し、人間と人間が滅ぼし合って全滅してしまう。
2.全滅を回避するために、神は人間を「天使的諸力」の統制のもとに置くことにした。
3.天使的諸力は、人間を「囲い」に入れて統制している。その囲いが、諸国民・諸民族・諸言語・諸文化・諸宗教・諸政府だ。
4.天使的諸力は、統制から外れた人間を罰することで秩序を維持している。バチの正体。
5.バチは「剣の権能」である諸政府が執行する。だから、諸政府の背後には天使的諸力が働いていることになる。
6.神は天使的諸力を通じて「律法」をイスラエルに授けた。律法は、全宇宙のあらゆるすべてのバチを集めてイスラエルの上に注ぐジョウゴの機能を持っている。
7.神はユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの上に赤ん坊となって降り立った。それがイエスだ。イエスは人間を贖う者となった。
8.イエスは、律法が宇宙からあつめたすべてのバチを、のこらず飲み干した。それが十字架だ。十字架によって、すべての罰は終焉させられた。
9.イエスは復活し、「新しい人間」のアイコンとなった。新しい人間は、天使的諸力の統制から解放されている自由な存在だ。
10.すべての罰が終焉させられた結果、天使的諸力はその使命を終えて、宇宙から退場させられることになる。
以上、10項目に要約してみた。
で、今日の聖書の言葉になるんだけど。。。
肉の思いは死であり
霊の思いは命と平和であります
「肉」というのは言ってみれば、人間の努力のことなんだろうと思う。
どういう努力かというと。。。
諸国民・諸民族・諸言語・諸文化・諸宗教・諸政府といった仕組みを使って、永遠の命を実現しようとするような努力。
それが「肉」ということなんじゃないだろうか(諸説あります)
それらは基本、バチをあたえることで維持されている仕組みであるわけだから、どんな努力も不可避的にバチから逃れられない。
これに対して。。。
イエス・キリストの十字架と復活によって永遠の命をあたえるのが「霊」ということになる。
この場合だと、すべてのバチは十字架によって終焉させられていて、かつ、復活したイエスが人間のなかに永遠の命を実現するので、このルートならバチを完全にスルーできる。
完全バチ回避による永遠の命の実現!
実現する(現在進行形・未来形)と言うより、いま・もう・すでに・完全に・実現されている(アオリスト=ある事実が過去において片づいてしまったことを表す時制)ということになる。
そうであるなら、確かにこういう表現になるよねー。
霊の思いは命と平和であります
註)
* オスカー・クルマン、前田護郎訳『キリストと時』岩波書店、1954年。
ヘンドリクス・ベルコフ、藤本治祥訳『キリストと諸権力』日本基督教団出版局、1969年。
ジョージ・ブラッドフォード・ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』オックスフォード大学出版部、1956年。
清水義樹「創造論・付天使」『教義学講座1・教義学要綱』日本基督教団出版局、1970年。
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