#979 とってもすばらしいカウンセラー、っていう話です。
今日の聖書の言葉はクリスマスのシーズンによく読まれる箇所なんだけど。。。
そのなかの「驚くべき指導者」という表現。
これって、救い主である赤ちゃんイエスにあたえられたタイトルのひとつだ。
びっくりさせられる指導者って、どんな指導者やねん、って思ってしまうよね。
今日の聖書の言葉。
これがねー。英語の聖書だと、どういうわけだか「ワンダフル・カウンセラー」っていうふうに訳されている。
とってもすばらしいカウンセラー、ってことだね。
なんかイエスのタイトルとしては、そっちのほうがしっくりする気がするんだけど、どうなんだろう。あくまで個人の感想です。。。
まあ、カウンセラーという単語に、いまわれわれがパッと思い浮かべる、いわゆる「カウンセラー」の意味を帯びるようになったのは、20世紀に入ってからのことだろうと思うけど。。。
でも、おもしろいもんだよね。聖書の言葉は変わらないにしても、その時代時代で翻訳語の意味はどんどん変わっていくから、相対的には聖書が告げる意味も変わって行っているように見える、ってことになる。
だから、おもいっきり現代に引き寄せたポジションで、イエスは「とってもすばらしいカウンセラー」ってことで、今年のクリスマスは受け止めてみようかなー、と思った。
むかーし自分がパストラルケア(臨床牧会ケア)の実習を受けたときに、カウンセラーの心構えとして、クライアントから何を言われたとしても、反対したり注意したり反論したり訂正したりせず、ひたすら受け止めて聞き役に徹しなさい、って口を酸っぱく指導された。
でもね、どちらかというと自分はディベート型の人間なので、話を聞いていると反論がノドのところまで出かかったしまう。だから「うん、うん、そうですか、それは大変でしたね」って言うのに大変さをおぼえた。
そんなとき、指導してくれた牧師がこう教えてくれたんだ。
すべてのひとは誰かが読み解いてくれるのを待っている聖なる文書、リビング・ヒューマン・ドキュメントです、って。
いやー。人間そのものが聖なる文書だ、っていう考え方に、ほんと目からウロコが落ちる、っていう感じがしたんだけどさ。。。
そう考えてみると、たしかに、どうしてカウンセラーは聞き役に徹しないといけないか、わかったような気がした。
だって、われわれは聖書を読むとき、それを神の言葉だと思って読むわけだから、「神様、ここの記述は変だから、訂正したほうがいいですよ?」「神様、なんでこんなこと書いたんですか? 間違ってると思いますけど?」「神様、自分だったらこう表現すると思いますけど、どうですか?」なーんて絶対言わないじゃん。
それは聖なる文書だから、それを受け取るときは、ひたすらあるがまま受け取るしかないよね。だって聖なる文書だからね。
にしてもまあ、普通のカウンセラーが読み解くことのできる他者の人生のボリュームっていうのは、おのずと限界があると思う。
だって、ひとりのひとのリビング・ヒューマン・ドキュメントに耳を傾けるだけで、すごい時間がかかるもの。
だから、過去・現在・未来のすべての人間のすべてのストーリーをすべて読み解くことのできるカウンセラーなんて、世界にはひとりもいないに違いない。
しかし、ひとりだけ、それができるであろう人物がいるよね。それがイエスなんじゃないかと思う。
なにせイエスはひとのかたちをとった「神」であるわけだから、人間として人間のストーリーの聞き役に徹しながら、しかも同時に、神としてその無限のボリュームをやすやすと引き受けることができるわけで。。。
そういう意味を込めてのワンダフル・カウンセラーなんじゃないのかなー、って思う。
だとしたら。。。
自分の人生のなかで「なぜ、こんなことが起きたんだろう」「どうして、あんな目に遭ったんだろう」ってことが、いまは答えをあたえられていないにしても、きっとイエスがぜーんぶ読み解いてくれて、あー、そういうことだったのか! って思わせてくれる、そういう日が来るに違いない。
「その日」が近づいていることを信じながら、自分のストーリーを今日も紡ぎ続けて行こう。。。
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