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十字を切る? 切らない? っていう話です。

自分はクリスチャンだけどプロテスタントなので、指で十字を切るという仕草をすることは基本的にしない。クリスチャンならみんな十字を切るのだろうと思われるかもしれないけれど、まあ、それはしょうがないよね。だって、知の巨人・立花隆の次に自分が尊敬している博物学研究家・荒俣宏でさえ誤解してるんだもん。荒俣先生が書いたかの長編伝奇小説『帝都物語』にドイツ人の医師である救世軍士官(プロテスタントの牧師)が十字を切る場面があって。。。読んだとき思わず「あちゃー」って声が出てしまったんだけど。。。その瞬間、自分は脳内で勝手に補正していた。このドイツ人は実家が南ドイツで、幼少時代をカトリックの領邦教会で過ごしてから北ドイツの大学医学部在学中にプロテスタントに改宗したから、つい子どもの時のクセで十字を切ってしまったんだ、って。。。

今日の聖書の言葉。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイによる福音書 28:19-20

そういうふうに脳内補正をかけてしまったのは、自分もいまはプロテスタントだけど幼稚園がカトリックだったので、十字を切る仕草が体のどこかにしみついているからだ。いや、いまは、しないよ。人目があっても、なくても、しない。そこはプロテスタントに徹するように自制している。でもねー。やらないけれど、体のなかには入っている。わかるんだ、それが。

幼稚園ではシスターに導かれるままに二本の指で額・胸・左・右の順に「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」って唱えていた。左・右っていうのは自分から見てのそれね。食事とかおやつの時は必ずその前後に十字を切っていた。不思議と幼いココロに父と子と聖霊って誰よ? ってことは疑問に感じなかった。なぜだろう。シスターがちゃんと教えていてくれたのだろうか。でも、三位一体の神について教えられた記憶は全くないんだよね。。。

そういうふうに、父と子と聖霊の御名によって、アーメン、が自分の体に入っていたから、中学2年になってあらためて回心してクリスチャンになったとき、三位一体という教義に対してつまづきをおぼえることはなかった。三つ子の魂百までもと言うけれどねー。ふつう考えたら、神はひとりなのに、父なる神と子なる神と聖霊なる神がいて、じゃあ三人じゃん? ってなるわけだけど、いや、そうじゃない、やっぱり神はひとりだ、三つで一つ、一つで三つだ、とクリスチャンは考える。考えるというか、聖書がそう言ってるので伝言ゲームみたいに同じことを言っている、っていうか。伝言ゲームだと語弊があるか。。。でも、それはだれかが勝手に発明したわけじゃなく、改変したわけでもなく、ずーっとそう教えられてきたから、最初からそう言われてきたから、だから、そうなんだ、ということなんだよね。よく「三位一体は聖書に書いてない」って言われるけど、いやー、そんなことないでしょ? はっきり書いてあるじゃん、ここに、って自分は思ってしまう。今日の聖書の言葉なんか、まさにそれだ。

父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
あなたがたに命じておいたことを
すべて守るように教えなさい

ここには、父なる神、子なる神、聖霊なる神が表示されていて、しかもそれらが単数形の「名」によって結合されている。つまり、三つで一つ、一つで三つなんだ。この三位一体の神に結ばれることによってひとはクリスチャンになるわけなんだけど、この三位一体を信じることが、クリスチャンとして守らなければならない最初の一個目だよね。

すべて守るように教えなさい

だって、三位一体の神に結ばれることによって、ほかのすべてが始まっていくわけだから。でも、ほかのすべて、と言っても細かい規則が無数にあるわけじゃあない。極論すれば守らなければならないことはすべてひとつの行為に集約されると思う。それは「愛する」ということだ。イエスは言っている。

わたしがあなたがたを愛したように
互いに愛し合いなさい
これがわたしの掟である
*

じゃあ、その愛は、どこに淵源があるの? って言うと、それは三位一体の神のなかに愛の淵源があるんだと思う。父なる神と子なる神と聖霊なる神は、永遠から永遠にわたって愛し合っているからだ。父は子を愛し、子は父を愛し、子は聖霊を愛し、聖霊は子を愛し、聖霊は父を愛し、父は聖霊を愛し、っていう永遠の愛が世界のデフォルトとして存在している。世界がはじまる前からこの愛はあったし、この愛によって世界は出来たし、だから、世界が目的としているのは愛で、その世界を生成しているのも愛なんだよね。なぜなら神は愛であり、それはつまり神が三位一体だということだから。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
ヨハネの手紙一 4:7 新共同訳

今日も自分は物理的に十字を切りはしないけれどココロのなかでは繰り返し唱えている。父と子と聖霊の御名によって、アーメン。それはべつに食事をする前後ではないんだ。自分の愛に限界を感じる時、自分の愛が枯渇していると思う時、自分には愛が無いと落ち込むとき。。。そういう時、すべての愛の淵源である三位一体の神に祈り求めるんだ。それは永遠で無限の愛のリゾースだから。

註)
*  Cf. ヨハネ 15:12

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