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人間だもの。超人にはなれないよ。。。っていう話です。

だれしも、ゆるやかーな、あたたかーい世界を願っているだろうと思うんだけど。。。

広いココロで他人の欠点や過ちを受け入れて、長い目であたたかーく見守って行く、みたいな。。。

それができるには想像力と感性が必要だよね。。。

あー、このひと、こんなこと言っちゃってるけど、きっといろいろあったんだろうなー、同情できる、で、胸がきゅーっとする、みたいな。。。

今日の聖書の言葉。

憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書 5:7 新共同訳

そういう同情は憐れみ・慈悲・コンパッションとも呼ばれるけど。。。

他人に慈悲深くあれ、っていうのは、仏教でも聖書でも同じ考えだと思う。

ボサツとかホトケは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くために、どこまでやるかというと、自分の命まで差し出す。捨て身の慈悲だ。

そしたら、まあ、自分自身は死んじゃうわけなんだけど。。。

でも、そこはそれ、輪廻転生だからね。生まれ変わって、また捨て身の慈悲を生きることができる、っていう。。。

聖書の場合は、神の独り子であるイエスが、人間の罪を取り除き永遠の命を与えるために、やっぱり自分の命を差し出した。それが十字架だ。

だから、イエスは死んでしまったわけだけど。。。

でも、三日目に復活したんだよね。イエスは今日も生きていて全人類に愛を注ぎ続けている。その愛が「聖霊」だ。

そういう同情・あわれみ・慈悲・コンパッションについては、その一方で、そんなのギゼンだ、ウソだ、非合理だ、ムダだ、無駄無駄無駄無駄ーッ、っていうふうに言うひともいる。

あわれみ不要、ノーマーシーの生き方だね。。。

そういう生き方の急先鋒を行くのが哲学者のニーチェだと思う。

ニーチェは細胞の研究をもとに「力の意志」を説いた *。

それは、どういうのかというと。。。

人間のからだには無数の細胞がある。

そして、ひとつひとつの細胞は「力の意志」で動いていると言うんだ。

より具体的には、細胞死するアポトーシスというプログラムがひとつひとつの細胞に組み込まれていて、それにより、弱った細胞は消え、強い細胞が残る。こうして、生命活動が続いて行く、というふうに観るのだ。

この考え方にもとづいてニーチェは、だから、同情・あわれみ・慈悲・コンパッションは、生命に対して有害、生命に反してすらいる、と説いた。

そのようにして、同情・あわれみ・慈悲・コンパッションを人生から徹底的に排除して生きようとしたニーチェ。。。

でも、彼は最後に発狂してしまう。。。

その発狂のトリガーになった出来事があって。。。

こういうことがあったんだって。。。

ニーチェは、1889年に発狂し、晩年の十年は狂人として生きた。原因は脳梅毒によるというのが有力な説らしいが、狂気を起こしたときの挿話は興味深い。すなわち「乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた」という。
仲島陽一「ニーチェの同情批判について」『国際地域学研究』第10号、2007年3月、p.71

自分は思う。ニーチェは超人ではなく、ふつうの人間だった。だから、彼の魂にも、神のかたち(イマゴ・デイ)が刻印されていたんだよ。。。

それはつまり、彼の魂にも同情・あわれみ・慈悲・コンパッションの種子が深く埋め込まれていたに違いない、ということになる。。。

その魂が発する叫びは、どんなに否定しようとし、何度消し去ろうと試みても、繰り返し繰り返しココロの底から湧き上がって来たんじゃないだろうか。。。

そしてついに、その魂の叫びは、超人であろうと努力したニーチェのココロを崩壊させる結果になってしまった。。。

でも。。。それでも。。。このニーチェの悲惨な過ちを、きっとイエスは、広いココロで受け入れて、あたたかーく見守ってくれているんじゃないか、って、自分は思う。だって、イエスは究極の慈悲だもん。。。

そして、思うんだ。もし、アポトーシスで死んでいく細胞の姿のなかに、ボサツとホトケの捨て身の慈悲を、イエスの十字架と復活の愛を、読み取ることができていたなら。。。

そうしたら、ニーチェの生き方は違ったものになっていんじゃないか、って。

註)
*  前川一貴「ニーチェの進化論批判ー器官の形成を巡って」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第59輯、第二分冊、2013年、pp.147-161

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