戦争のうわさを聞きながら「聖なる生活」の失敗と成功について考える、っていう話です。
朝、目が覚める。ベッドから抜け出してコーヒーを立てる。服を着替え、洗面所で身づくろいし、iPhoneに届いた今日の聖書の言葉をチェックする。いつもの祈りのルーチンをささげる。「主イエス・キリスト、神の子、救い主。罪人であるわたしをあわれんでください!」
祈り終えると、 テレビのニュースは不穏なウクライナ情勢を伝えている。イエスが二千年前に言った「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(マルコ13:7) という言葉を思い出す。それって解釈のしようによっては、人間は戦争を避けては生きられない、って意味に取れなくもないよなあ、とぼんやり考える。それにしても、今日の聖書の言葉とわれわれの現実とのあいだの何という乖離だろうか!
今日の聖書の言葉。
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
ヘブライ人への手紙 12:14 新共同訳
「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ1:18) という衝撃的なステートメントが新約聖書に載っているけど、じゃあ、どうしていままで誰も神を見ることができなかったんだろう? ってことを思う。今日の聖書の言葉のロジックによれば「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできない」と言っているわけだから、その線で行けば、これまで、だれひとり聖なる生活に成功しなかった、なので、だれも神を見ることができなかった、ということになるのかもしれない(諸説あります)
聖なる生活をしたいと思って挑戦したひとは過去にたくさんいたと思う。けれど、神を見ることができるほど聖なる生活をした、というひとは、ひとりもいなかった、ということになるんだろうね。いや。もちろん「オレは神を見た!」と主張するひとはいたし、いまもいる。でも、そのひとが実際に神を見たかどうか真偽を検証するすべは無いよね。だって「見た」と主張する対象が、ほかのだれも見たことの無いコトやモノであった場合、どうやったって証明のしようがないじゃん?
しかし、今日の聖書の言葉は、もし聖なる生活が成功した場合には、それがどういう客観的な姿で見えるか、っていうことのヒントが示されていると思う。それが、これ。ここのラインだ。
すべての人との平和
神を見たかどうかは確かめようがないし、聖なる生活に成功しているかどうかも確かめようがない。ちょっと意地悪な言い方をすれば「わたし、聖なる生活、してまーす!」って言うひとがいたとしても、そのひとの人生のバックヤードまで覗かせてもらえるわけじゃないから、ほんとのところどうなのかは、わからない。その一方で「すべての人との平和」というのは、客観的に確認できるものだよね。だって、われわれは、すべての人との平和、という状態がどういうものか想像できるから。それが想像できるわけは、われわれが実際に平和を持っているからではない。むしろ、自分と他者とのあいだ・他者と他者とのあいだに存在する、対立・怒り・憎しみ・敵意・争い・攻撃・紛争・戦争というものを普段から経験しているので、だから、それらの対極にある「すべての人との平和」がどういうものかをイメージ出来てしまうのだ。
その「すべての人との平和」を絵画的に描いたイコンがある。15世紀のモスクワの修道士アンドレイ・ルブリョフの手になるものだ。父と子と聖霊が祭壇を囲んで配置されているその描写からは、なんとも言えない静謐さが放射されている。平和とは、自己と他者のあいだの平和・他者と他者のあいだの平和であるわけだけど、父と子と聖霊は、三つにして一つ、一つにして三つ、つまり、自己のなかに他者が組み込まれ、他者のなかに自己が組み込まれ、他者のなかに他者が組み込まれた存在。それが三位一体だと言えるんじゃないかと思う。だとしたら、平和から遠いわれわれがいちばんシンプルにイメージできる平和のありようは、三位一体ってことになるんじゃないだろうか。
ルブリョフが三位一体のイコンを描いた当時は、ロシアがロシアの体をまだ成していなかった時代。モンゴルに支配された状態にありながら、隣接するポーランドやリトアニアに攻め込まれて、いつだって戦乱が絶えない。つまり「すべての人との平和」なんて、どこにも無い時代だった。だからルブリョフは、このイコンを描く必要があったのかもしれないねー。
このイコンをじーっとながめてみる。すると、父と子と聖霊が取り囲む祭壇の正面に、よーく見ると四角い小窓が開いているのに気がつく。それは何かと言うと、殉教者の遺骨を入れるための小窓なんだ。カトリックや正教では、祭壇のなかに殉教者や聖人の遺物を入れるよう、決められているらしい。プロテスタントである自分は、そういう慣習からは自由な立場にいるので、この「遺骨の小窓」については、即事的ではなく寓意的に解釈してみたいと思う。どういう寓意があるんだろうね。。。
これは自分の想像だけど、こういう寓意じゃないだろうか? つまり、父と子と聖霊の静謐な交わりのなかに参入したいと思ったら、われわれは「遺骨の小窓」から入る以外に道がない、ということ。言い換えればそれは、古い自分に死に、自己につけるすべてを捨ててしまわない限り「すべての人との平和」には至り得ない、っていう暗示なんじゃないだろうか。
考えてみると「すべての人との平和」が実現しないようにさせている張本人は言うまでもなく他者であり、それは、あの気に食わない他者、目障りな他者、理解不可能な他者、憎くて仕方がない他者、消えてほしい他者、であるわけだけど。。。しかし、その他者が他者として自分の前に立ちはだかって、対立・怒り・憎しみ・敵意・争い・攻撃・紛争・戦争を引き起こすことができるのは、その他者を他者たらしめている自分がどこまでも自分にこだわっているから、っていう面もあるよね。。。
でも、じゃあ、この自分が、ウラジーミルが、ジョーが「はい、わかりました、イエスさま!」って言って、簡単に「遺骨の小窓」に身を投じることができるか? っていうことを想像してみると、やっぱり、それはなかなか難しいだろうなあ、と思う。「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」であふれているこの世界に向かって、それでも、三位一体の神からは深い静謐が放射されている。そして、あの「遺骨の小窓」は、今日・いま・この瞬間も、われわれに向かって開かれている。思い込み・こだわり・疑心暗鬼・主義主張・敵愾心の根源である自分自身を手放して、小さくなって、ここから入ればいいんだよ!って、三位一体が無言で手招きしている。入りたい。入ろうとしてみる。いや。まだ、なんか、大きすぎるみたいだ。つっかかって立ち往生してしまう。。。
狭い門から入りなさい。
マタイによる福音書 7:13 新共同訳
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:19-20 新共同訳
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