世界を地獄にしないための、もろもろの注意点について。。。
きのうの note で宗教と暴力の関係を考察した。
そのなかで、包摂概念Xを旗印とする社会Xと、包摂概念Yを旗印とする社会Yが出会ってしまったら、戦いになる、ってことを書いた。
今日の聖書の言葉。
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙 1:16 新共同訳
今日の聖書の言葉は、ユダヤ人とギリシア人を並べてるけど。。。
この対比って、社会Xと社会Yの典型例じゃないかなあ、と思う。
思いっきり単純化してみると。。。
ユダヤ人は包摂概念として「信仰」を旗印にまとまっている社会X。
ギリシア人は包摂概念として「理性」を旗印にまとまっている社会Y。
。。。っていうふうに見ることができるんじゃないだろうか。
その社会Xと社会Yが、衝突したことがあるんだよね。
社会X=ユダヤ人は、バビロン捕囚から帰って、エルサレムに神殿を再建したんだけれど、超大国のパワーゲームが バビロニア帝国 → ペルシア帝国→アレクサンダー帝国 → 三分裂帝国 へと変遷するなかで、ほんろうされる。
で、三分裂帝国のひとつ、セレウコス朝シリアの君主 アンティオコス・エピファネスが、ギリシア人の「理性」をユダヤ人に強要したんだ。
宗教と暴力の結びつき、って問題だけど、理性と暴力の結びつき、っていうのも、問題だよね。
理性的なひとって、暴力をふるわないイメージがあるけれど、理性的だからこそ暴力を使ってしまう、ってことがあると思うんだ。
なんでそうなっちゃうのか、考察してみよう。
しかし、理性に行くまえに、まず、信仰。
「信仰」の世界だったら、信じるひと・信じないひと、に単純に分かれる。
で、信じないひとについては、しょうがないよね、ってしかならない。
だって、信じない、って言うんだから、さ。
信仰は、人格的な信頼にもとづくものだから、ちょっとでも強要したら、それは「信仰」ではなくなっちゃう。
残念ながら、信じることを強要する、ってことが、いま世界で起きてる。
強要しちゃうひとたちって、どこか人格的な信頼が抜け落ちているんじゃないのかなー、って感じる。
なんか、不安感と恐怖心で動かされているよう見えちゃうんだよね。
おそらく、相手と自分が同じマインドを持ってないと、自分の存在がおびやかされる、というふうに感じてるんじゃないだろうか。
そして、理性だ。
「理性」の世界でも、やっぱり、合理的なひと・非合理的なひと、に分かれて、それで、しょうがないねー、で幕引きになればいいんだけど。。。
どうもそうはならない。
だって、大前提として、万人が理性を持ってる、って言うわけだから。
だから、個々人がきちんと理性能力を行使すれば、みんな同じ答えに到達できるはず、ってなるじゃん。
しかし、もし、同じ答えに到達できない場合には、どうなるかというと。。。
自分と同じ答えに到達できないのは、理性能力の行使を怠ってるヤツ=バカ、って扱いをすることになっちゃう。
。。。みんな、大なり小なり、これ、やってるんじゃない?
さきほどのアンティオコス・エピファネスは、ユダヤ人だって理性能力を行使すれば、ギリシア人のようになれるはず、と考えた。
で、たしかに、一部のユダヤ人は、ユダヤ人の生き方をやめて、ギリシア人のようになることに理性的に合意した。
でも、多くのユダヤ人は「信仰」のゆえに抵抗したんだ。
そこで、アンティオコス・エピファネスは、ユダヤ人に信仰を捨てさせ、理性に立ち返らせるために、合理的な方法を採用することにした。
それは、苦痛を与えること。。。迫害とか拷問とか粛清とか、だ *¹。
ふつう、人間は最小限の努力で最大の満足を得ようとする。
だから、そういう人間の性質を利用して、苦痛をツールに使ったんだ。
苦痛を与えれば、相手は苦痛を回避して、苦痛を感じない道を選択するだろう、っていう。。。
こうして、自分こそ理性を体現する最も合理的な人間だ、と自負するひとが、非合理的だと断じた相手をコントロールする手段として、暴力を使う、っていう事態が展開することになる。
それがために、世界は地獄の様相を呈することがあるよね。
ところで。。。
イエスを信じる「信仰」に対しては、地獄の門も打ち勝てない、とイエス自身が言ってる *²。
よーく考えてみると。。。
「人間は最小限の努力で最大の満足を得ようとする」という快楽原則で考えたら、もしかしたら、信仰がいちばん合理的なのかもしれないね。
だって、イエスの名を呼びさえすれば、罪のゆるし・永遠のいのち・世界・神・ぜーんぶワンストップでゲットできる、って言うんだから。
これこそ、最小限の努力で最大の満足を得る、最高に簡単な方法だと思うんだけどねー。。。
でも、そう思っていいのは、自分だけなんだ。
それを、ちょっとでも相手に強要しようとしたら、とたんに世界は地獄になってしまう。
註)
*1. アンティオコス・エピファネスが行ったユダヤ人大粛清については、旧約聖書続編のマカバイ記に詳しく書かれている。この圧政に対して祭司のマタティアが抵抗し、その子マカバイがギリシア人の支配を覆すことに成功した。ギリシア人の政策で、エルサレムの神殿には異教の神像が設置されていたため、マカバイは「宮きよめ」を行って神殿を「神」に再奉献した。その際、燭台(メノラー)の油が切れても8日間に渡り輝き続ける奇跡が起こり、それを記念してユダヤ人はいまも「ハヌカー」の祭りを守っている。マカバイの一族は、大祭司が王を兼務するハスモン朝を創始したけれど、後継のアリストブロス2世とヒルカノス2世が王位をめぐって内紛。そこにローマの執政官ポンペイウスが介入したことで、ユダヤはローマの属州に編入されることになり、エドム人ヘロデがローマの意向を受けて「ユダヤの王」に即位した。不人気なヘロデはユダヤ人の歓心を買うために、多額の費用をかけてエルサレムの神殿を美しく改装した。こうして、新約聖書の当時の環境が整うことになる。
*2. Cf. マタイ 16:18
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