自分の満足、他人の満足、神の満足
自分が完璧に仕上げた、と思っていた仕事が、あとでクレームをつけられると、がっかりするよね。
凡ミスの指摘なら、それは、当然だと思うんだけど。。。
どう考えても納得がいかないクレームも、ある。
それは、自分を満足させる評価のスケールと、他人を満足させる評価のスケールが、食い違う場合に起きるんじゃないかと思う。
自分は、自分を満足させる評価のスケールが、普遍的なものだ、と無根拠に思い込んでいる。
同様に相手も、相手自身を満足させる評価のスケールが、普遍的なものだと、無根拠に思い込んでいる。
こうなると、どちらの考えが普遍かをめぐる、決着のつかない論争に突入しかねないよね。。。
まあ、やらんけど。。。
今日の聖書の言葉。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5:10 新共同訳
「義」というのは、自分の満足でも、他人の満足でも、ないんだよね。
神の満足。神のこころが満足している状態。それが、義だ。
なぜなら、ほんとうの普遍は、神さまだけ、だからねー。
自分は、お祈りするとき、「御心がなりますように」って言うんだけど。。。
御心を「みこころ」と発音して祈る場合、いつのまにか、神の満足よりも、自分の満足を求める思いが、混ざり込んでしまうことがあるなあ、と気づかされる。
なので、意識して、こう言うようにしているんだ。
神さま。いま、自分は「みこころ」が、なりますように、って言いましたけど、それは、かならずしも、あなたの「おこころ」と同一ではない、ということを理解しています。ですから、言いなおします。神さまの「おこころ」が、なりますように。神の満足が、自分の満足と異なっていても、あるいは、神の満足が、他人の満足と異なっていても、神の満足を受け容れることができるように、自分の心を変えてください。アーメン。。。
まあ、他人がそのアーメンに唱和してくれるかどうかは、また別の問題。
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