無知A? 無知B? 自分、どっちよ? っていう話です。
戦争に勝つためには、相手より先に情報をゲットすることが大事だよー、って古代中国の軍事思想家である孫氏が言った。
情報を制する者が戦いを制する、ってことだよね。
だから、どの国も情報を得るためにスパイ活動を必死にやってるわけだけど。。。
でも、そうやって集めた情報には、敵が混ぜ込んだ偽情報が含まれている可能性があるから、慎重に取捨選別をする必要がある。
で、精度の高い情報を上役に提出するわけだよね。
すると上役は、さらなる取捨選別をして、自分の上役に上げる。
その上役は、もっと取捨選別をして、もっと上役に上げる。
そのプロセスが続いて行って。。。
ようやく最終的な意志決定者のテーブルに「情報」が上がって来るわけだけど。。。
問題は、一連のプロセスを通るのに時間がかかって、情報の鮮度が落ちてしまうこと。
あと、もし最終的な意志決定者が激高しやすい人格だったら、当然ブチ切れられるのがイヤな側近は、悲報を隠蔽し、吉報しか伝えないだろう。忖度ってやつだね。
そういうことを考えると、ほんと、情報を制するって、難しいことだよなー、と思う。
今日の聖書の言葉。
情報の種類を単純に分類すると。。。
知ってた
知らなかった
いま知った
知るか(関心が無い)
っていう4つになるんじゃないかなー、と思うけど。。。
まあ「知るか」は論外として。。。
「知ってた」というのは、これまでの情報収集で知り得た過去情報なわけだから、鮮度としては古いよねー。
なので、幸運にも現状が過去情報と一致していることもあるだろうけど、過去情報が現状と全然違う、ってことも普通にあると思う。
だから、情報は常に更新しなきゃいけないわけだよね。
これに対して「知らなかった」というのは、全然認識してない、ってことだけど、でも、二種類の「知らなかった」があるんじゃないかと思う。
ひとつは、自分はぜーんぶ知っていると思い込んでいるけれど、実は全然認識できていないことがたくさんある、っていう状態。慢心というやつだね。これを無知Aと呼ぶことにしよう。
もうひとつは、自分は何ひとつ知らないと自覚していて、だから全然認識できていないことがたくさんあるとわかっている状態。無知の知というやつ。これを無知Bと呼ぶことにしよう。
さて、ここに、まったく新しい情報が飛び込んできたとする。まさに今日の聖書の言葉がいう「いま知った」ってやつだね。
で、いま知った! っていうとき、無知Aの場合には、プライドが傷つけられることになる。だって、全部わかっているって思いこんでいたわけだから、自分が知らないことがあるなんてケシカランってなる。なので、反応としては、不機嫌になる・怒り出す・無視する、ってことに。。。
でも、無知Bの場合には、ふーん、そうなんだ、わかりました、対処します、って自然に受け取ることになる。だって、自分は何も知らないし、知らないのは当然、という姿勢だから。なので、反応としては、教えてくれてありがとう・承知しました・了解です! ってことになる。
さて、こっから先は自分についての反省になるわけだけど。。。
「いま知った」ってことに対して、自分はどれだけ心が開かれているだろう?
神についても・世界についても・霊魂についても・自分についても、自分は何も知らないし、知らないのは当然、という無知Bの姿勢を持っていないと、それが生き方に露骨に出てしまうんじゃないかと思う。
たとえば、今日これから礼拝の場所に行って説教を聴聞するわけだけど、「いま知った」ってことに心が開かれていなければ、説教を聞きながら退屈だなーって感じたり、よそ見したり、白昼夢をさまよったり、居眠りしたりしちゃうわけであって。。。
それが問われ、試されるモメントが、この日曜日もやって来るわけだ。
無知A? 無知B? 自分、どっちよ?
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