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推しに尊さを感じなくなったら、推すのをやめる? っていう話です。

正月三が日が終わって平常運転になったわけだけど。。。

新しい一年をどう生きるかについて自分のココロの中で二つの考え方がぶつかり合っている。。。

ひとつは「どうせだめだからやめておこう」という考え方。

もうひとつは「やってみなけりゃわからないじゃん」という考え方。

たぶんこの一年、いろんなイシューに直面するたびに、この二つの考え方を比べて、どっちか選ぶことになるんだろうね。。。

今日の聖書の言葉。

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
コリントの信徒への手紙二 9:6 新共同訳

全力投入か、エンジン半開か、ブレーキをかけながら行くか、停止するか、火を落とすか。。。生き方にはいろいろ選択肢があるわけで。。。

でも、長く生きるほど失敗の経験も積み上がって来るから、そうなるとココロの投票行動は「どうせだめだからやめておこう」に有利になって行くんじゃないかなー、って思う。。。

。。。って言うのは昨日までの話。

あらゆるものごとが流動化し、先行きが見えず、予測が立たない「絶対的不確実性の時代」に突入している2022年は「やってみなけりゃわからないじゃん」の方が有利に働くかもしれない。。。

いや、わからないけど。。。だって、わからないから(笑)

「どうせだめだからやめておこう」と「やってみなけりゃわからないじゃん」のハザマにいる自分は、どうやって決めればいいんだろう?

いままで無意識的に選んで来たから、あんまり考えたこともなかったけど。。。

こういう選び方があるだろうね。。。

ひとつは、投入したインプットに対してそれを上回るアウトプットが得られないようなら、やめておこう、という選び方。「無駄」という考え方だね。

あと「もったいない」という考え方があると思う。

もったいない、とは「勿体もったい無い」で、勿体はあり得ない、という意味なんだって。

「勿体」の原義は、超越的な存在の本質の輝きが失われた状態。それが、もったい。。。なんやねん、それ(笑)

まあ、たとえてみると。。。推しが尊い、っていう言い方があるけど、ある朝、目が覚めたら推しから尊さが消えてた! みたいな感じだろうか。。。

で、その状態に驚愕して、推しから尊さが消えるなんてあり得ない! というのが、勿体+無い=もったいない、だ。

なので、もったいない、とは、ココロのトキメキは消えたけれど、そんなはずない、もしかしたらトキメキが戻るかもしれないから、もうちょっと続けてみよう、ってことかもしれないねー。

「どうせだめだからやめておこう」
「やってみなけりゃわからないじゃん」
そのハザマで「無駄」と考えるのか「もったいない」と考えるのか。。。

無駄無駄無駄! もうココロのトキメキを感じない。どうせだめだからやめておこう、ってなるのか。。。

もったいない! トキメキを感じなくなったけど、もしかしたら戻るかもしれないよ。やってみなけりゃわからないじゃん、ってなるのか。。。

今年の自分の判断はどっちが多くなるんだろうね。。。

それにしても。。。

もはや推しに尊さを感じなくなっているにもかかわらず、それでも推しを推し続けるとしたら、それは究極の推しだよね。

それは「無駄」とか「もったいない」を超越した「恩寵」の世界だ。その向こうには永遠不変の神の愛が透けて見える。。。

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