ワールド・ウォーZを回避するために、自分に、いま、何ができるだろうか。。。
このところ、宗教と暴力、ということを考えている。
宗教を「こころの安らぎを与えるもの」と定義するのであれば、宗教と暴力は対極に位置するはずなんだけど。。。
でも、歴史をみると、かならずしもそうなってない、っていう謎。。。
じゃあ、別の定義をしたら、どうだろう。。。
宗教を「超越的な世界観」って定義してみたら?
この場合の超越的っていうのは、「人間一般の経験や認識の範囲外に超え出ていること」(by 大辞泉)というふうに考えてみたい。
ちょっとシミュレーションしてみよう。
原始時代に、原人Aさんと原人Bさんがいたとして。。。
AさんとBさんの意見が対立した場合、原始時代だから、どっちが正しいかは実力行使でしか決まらない。
こん棒で殴り合うイメージ。。。
で、ぜったい勝つ、ってことを思い定めて実力行使したら、行くとこまで行くしかない。生きるか死ぬか、だ。
でも、もし、お互いの意見が対立しても、それを包摂できるような概念が存在したら、話は違ってくると思う。
この包摂概念というのが、霊であったり、ご先祖さまであったり、神々であったりするんじゃないだろうか?
AさんとBさんの意見が衝突して、実力行使を考慮しはじめたとき、その包摂概念が割って入って「やめなさい」って言う。なので、お互い自重して、折り合いをつけて生きて行く、みたいな。。。
個人の認識や経験だけで、ぜーんぶ仕切ろうと思ったら、自分とは異質な他者に、ぶつからざるを得ない。仕切り方が違うからね。
そして、ぶつかってばかりいたら、生き残るのは難しい。
だから人間は、個人の認識や経験を超越していて、かつ、自己と他者の両方を包摂できるような概念を、必要としたんじゃないだろうか。
今日の聖書の言葉。
もし、AさんとBさんが意見を異にしても、包摂概念であるXを両者がイメージすることができて、かつ、両者とも包摂概念Xをオソレる場合には、AさんとBさんは争いを保留し、Xを旗印にして、ひとつにまとまることができる。
こうして、包摂概念Xを旗印にした社会Xが誕生したんじゃないだろうか。
ところが、ね。。。
包摂概念Xを旗印とする社会Xは、おそかれはやかれ、別の包摂概念Yを旗印とする社会Yに、出会うことになる。
出会ってしまったら最後、X対Yの戦いの火ぶたが切られるんだ。
個人と個人の戦いを回避して生き残らせるための包摂概念が、今度は、社会と社会の戦いを発生させる事態になり。。。
包摂概念同士の死闘。。。
包摂概念とは「宗教」だとするならば、宗教が暴力に親和性を持つ理由は、包摂概念の限界性に根差している、ということになる。
その先を考えよう。。。
社会Xと社会Yが、包摂概念の違いのために衝突して、滅ぼし合おうとするとき、もしそこに、両者を包摂するような、さらに上位の包摂概念Zが登場したならば。。。
そしたら、社会Xと社会Yは折り合いをつけて、社会Zになれるよね。
たぶん、人類の歴史は、このZとは何か? を追求する線に沿って歩んできたんじゃないのかな、と思う。
いちばん単純な包摂概念である霊とかご先祖さまから出発して、上位の概念である神々へ、もっと上位の国家へ、国家よりも上位である「神」へ、さらに、それすら超える上位概念としての理性へ、という具合に。。。
いま、人類は「どれをZに採用するか、あるいは、そもそもZが必要なのか」という議論をする段階に来ているんじゃないか、と思う。
この議論は、お上品にテーブルに着いて行うばかりでなく、生きるか死ぬかの実力行使で行われているよね。
Zとは前衛党が体現する理性だ、 という立場からしたら、Zとはイエスだ、という立場を、容認できないことになる。
Zとは唯一神だ、という立場からしたら、Zとは三位一体の神だ、という立場を、容認できないことになる。
Zは必要だ、という立場からしたら、Zはいらない、という立場を、容認できないことになる。
人類歴史におけるZをめぐる衝突の最終段階は、いったいこの先、どう運ぶんだろうか?
もしそれが、暴力によってしか決まらないとしたら、悲劇だ。
だってそれは、全人類規模の死闘になる可能性が高いから。。。
自分はクリスチャンなので、包摂概念Zとはイエスであると考えている。
だからこそ、考える。
自分は、自分とは異質な他者、あるいは、異質な社会に出会ったときに、自分とイエスとの個人的なつながりのなかで、どう折り合いをつけるのか、ってことを。
それは、やっぱり、Zであるイエスをオソレて、イエスが言うコトバに耳を傾けて、そして、自分の身の振り方を決めるしかないんだよね。
Zであるイエスの言葉。。。
だれかがあなたの右の頬を打つなら
左の頬をも向けなさい *¹
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい *²
あなたがたは敵を愛しなさい
人に善いことをし
何も当てにしないで貸しなさい
そうすれば、たくさんの報いがあり
いと高き方の子となる
いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも
情け深いからである *³
註)
*1. Cf. マタイ 5:39
*2. Cf. マタイ 5:44
*3. Cf. ルカ 6:35
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