ほんとうに、ひどい気分にさせてくれる、誰かさんへの、密かな感謝の言葉。
自分で自分に言い聞かせてることがある。自慢話をしない。武勇伝を語らない。会話の流れを乗っ取らない。誰に対してもマウントを取らない。おごらない。たかぶらない。偉そうにしない。。。
でもね、これがなかなか難しい。ちっともできてないじゃん、って、いつも誰かさんから指摘されちゃう。誰から、とは言えないんだけどさ。。。
今日の聖書の言葉。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
フィリピの信徒への手紙 2:3 新共同訳
キリストに似た者になる、とは、水をブドウ酒に変えることでも、5つのパンで数千人を養うことでも、水上歩行することでも、変貌山で光り輝くことでもない。
「へりくだることだ」と、今日の聖書の言葉は指摘している。
その続きで、こう言われている *¹。
互いにこのことを心がけなさい
それはキリスト・イエスにもみられるものです
キリストは、神の身分でありながら
神と等しい者であることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕(しもべ)の身分になり
人間と同じ者になられました
今日の聖書の言葉は、いろんな訳では、こういうふうになっているねー。
新国際訳(New International Version)
利己的な欲望やひとりよがりの空しい考えで何かするのはやめなさい。むしろ、謙遜に、他人を自分より優れた者と評価しなさい。
ニューリビング訳(New Living Translation)
利己的であってはいけない。他人に印象づけようとするのはやめなさい。他人は自分より優れていると考えなさい。
欽定訳(King James Bible)
闘争心とかうぬぼれで何かするのはやめなさい。しかし、心を低くして、お互いに相手を優った者と考えるようにしなさい。
米国標準訳(American Standard Version)
党派心や慢心で何かするのはやめなさい。しかし、心を低くして、お互いに相手を優った者として評価しなさい。
クリスチャンって、信仰によってキリストとひとつになっている。キリストと一体化しているわけだ。このことをルターは「神秘的結合」(Unio Mystica) と呼んだんだけど、この信仰的な感覚でつっぱしってしまうと、容易に舞い上がっちゃう。
まあ、キリストに結ばれた自分が、キリストと共に、キリストの内に、天の御座=宇宙のいちばん高いポジションに引き上げられた *² という感覚になるわけだから、眼下にすべてを見下すようになっちゃう場合がある。残念ながらね。
だとしたら、なおさら心を低くしないと、ほんと、あぶなっかしくてしょうがないよ。
じゃあ、どれぐらい低くすればいいんだろう。。。
イエス・キリストは、神としての在り方を捨てて、人間となり、十字架につけられ、死んで、墓に葬られ、陰府にまで降下した。
それぐらい低くなれ、ということなんだと思う。
自分の慢心、うぬぼれ、思い上がり。。。それを、今日もグサッと刺して、夢から覚めさせ、正気に立ち戻らせてくれる誰かさん。。。ありがとう、いつも。。。
そのおかげで、自分は精神的に死んで、墓に葬られ、地面の下までめり込んで、深く、深く、陰府にまで降下させられるような、ひどい気分になる。
そりゃ、ほんとうに、ひどい気分だ!
でも、そういう、ひどい気分になることが、自分には定期的に必要なんだと思う。
だって、それがなかったら、空に舞い上がって、糸が切れたタコみたいになっちゃうに違いないから。
なので、言います。ありがとうございます!
註)
*1. Cf. フィリピ 2:5-7
*2. Cf. エフェソ 2:4-6
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