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自分を大目に見るように、あの他人・この他人を大目に見ることができるようになるためには、どういう世界観的な構造が必要か、っていう話です。

神は愛です、って、よく聞く。

けれど。。。

じゃあ、どれぐらいのボリューム感で愛してくれるのよ、ってことを考えると。。。

父が子を愛するように、っていう比喩を、聖書は持ち出して来る。

たとえばこれ。

今日の聖書の言葉。

父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
詩編 103:13 新共同訳

この聖書の言葉によれば。。。

父が子を愛するように、神はわれわれを愛してくれる、ってことになる。

この、父が子を愛する、っていう内容を膨らませたのが、新約聖書なんじゃないか、と思う。

新約聖書で開陳されている世界観によれば。。。

父なる神が
子なる神であるイエスを
永遠から永遠に愛していて
その「愛」が聖霊なる神だ

ということになる。いわゆる、父と子と聖霊。三位一体だね。

父なる神が、子なる神を愛する。。。これは、父から「愛」つまり聖霊が発出して、子に向かうことになる。

逆に

子なる神が、父なる神を愛する。。。これは、子から「愛」つまり聖霊が発出して、父に向かうことになる。

まとめると
聖霊は父と子から発出する(ex patre filioque procedit)
っていう西方教会の定式になる *。

じゃあ。。。

父から発出する聖霊と、子から発出する聖霊は、ちがう聖霊なのか? ってことになるんだけど。。。

ひとつだけ、なんだよね。なんと。

父から出る聖霊と、子から出る聖霊は、同じひとつの聖霊、という。。。

もうね、これは「信仰の神秘」としか言いようがない。

でもって、この愛の構造のなかに、人間が組み入れられることになるんだ。

父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる

どういうふうになるか、というと。。。

これを、この自分、にあてはめてみれば

父なる神は
子なる神であるイエスを
永遠から永遠に愛するように
この自分を愛してくれる
その「愛」は聖霊なる神だ

これを、あの他人、にあてはめてみれば

父なる神は
子なる神であるイエスを
永遠から永遠に愛するように
あの他人を愛してくれる
その「愛」は聖霊なる神だ

ということになる。

そして、さらにその先、どいうことになるか、っていうと。。。

父なる神にとって、この自分は、イエスと同じ愛の対象
それと同様に
父なる神にとって、あの他人は、イエスと同じ愛の対象

さらに

この自分が受けている「愛」つまり聖霊と
あの他人が受けている「愛」つまり聖霊は
同じひとつの聖霊

っていうことになるんだよね。

するとねー。。。どういうことになるかというと。。。

同じ聖霊で結ばれている父と子が、ひとつであるように
同じ聖霊で結ばれている自分は、三位一体と、ひとつ
同じ聖霊で結ばれている他人は、三位一体と、ひとつ
そして
同じ聖霊で結ばれている自分と他人は、ひとつ

ってことになるんだよねー。

で、この構造を表現したのが、イエスの次の言葉なんじゃないかと思う。

わたし(イエス)が彼ら(人間)の内におり、あなた(父なる神)がわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです
ヨハネによる福音書 17:23 新共同訳

この世界観を受けて、パウロはこう表現している。

一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです
コリントの信徒への手紙 12:13 新共同訳

というわけで。。。

最初の問いに返ってみると。。。

「神は愛です」を、つきつめて考えていくと、自然な成り行きとして、この自分は、あの他人を、自分を愛するのと同じように愛さなきゃいけない、ってことになる **。

だって

同じ聖霊で結ばれている自分と他人は、ひとつ

。。。なんだから、さ。

というわけで。。。

自分は、いつも自分のことを大目に見ているように、今日も、あの他人・この他人を、最大限に大目に見るように努力する。

努力したくなくなる日もあるけれど。。。でも、努力する。努力してみる。

註)
* 「聖霊は父と子から発出する」という定式を受け入れているのは西方教会だ。東方教会では「聖霊は父からのみ発出し、子を通して派遣される」となっている。
**  Cf. マタイ 22:37-39

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