歌をうたうとき、「救い」は未来ではなく現在のものになる
きのう、すっごいがっかりすることがあった。
なんにがっかりしたか、は、まあ、言わないでおこう。
ツイッターのトレンドには「都民失望」とあったので、あー、失望しているのは自分だけじゃないんだ、というのが、すこし慰めになったけど。
今日の聖書の言葉。
見よ、わたしを救われる神。
わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった。
イザヤ書 12:2 新共同訳
「見よ」っていう呼びかけが、ときどき聖書に出て来る。
それは、フォーカスを切り替えていこうよ! ということなんだと思う。
フォーカスっていうと、自分はつくづく単焦点の人間だ、って感じているんだけど。。。
フォーカスが2つに分割されるぐらいなら、なんとか回せる。3つ以上になるとお手上げだ。
世の中には3つ4つにフォーカスしながらスイスイはこべるひともいるけれど、自分はどうしても1つに集中して短時間でカタをつけたいタイプ。
どんなことも 30分以内に終わらせないと気がすまない。
なので、集中していると、背後から声をかけられても気がつかない。耳に入って来ないのだ。
そんなふうなので、ネガティブなことが起きると、たいへんだ。
だって、ネガティブなことって、どんなに集中しても、短時間でカタがつくことは、まずないから。経験上だと最長 10年ぐらいかかる。
で、寝ても覚めても1つのネガティブにフォーカスしてしまうと、ほかのことに手をつけても、うわのそらになっちゃう。
旧約聖書の預言者イザヤが生きた時代は、イスラエル・ユダヤの民に対して、ネガティブな出来事がフルコンボというかフルボッコでふりかかろうとする大厄災の時代だった。
しかも、大厄災が数百年のスケールで続くっていう、すさまじさ。
イザヤは、神からの預言をイスラエル・ユダヤの民に伝えて、これから来る大厄災の時代に備えさせようとした。
まあ、備えると言ったって、数世代が生きてるあいだで収拾しないレベルの大厄災だから、備えようがないんだけれど。。。
にもかかわらず、イザヤは「見よ」っていうフレーズを発して、みんなのこころのフォーカスを切り替えさせようとするんだよね。
見よ、わたしを救われる神
わたしは信頼して、恐れない
主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった
がっかりするできごと。。。解決の望めない状況。。。ひとつしかない自分のフォーカスを、ぜんぶそこにもっていかれて、こころはうわのそら。。。
だから、「見よ」が自分には必要だ。
こころのフォーカスを「わたしを救われる神」に向けよう。
自分に解決できない問題を、神の手にゆだねよう。
ゆだねたものについては、神の責任下に移行したのだから、こころの負担を下ろそう。
こころを神にフォーカスすると、神は自分のうちに内在する力(聖霊)となって、生きることを助けてくれる。
すると、こころのなかから、内在する聖霊から、歌があふれてくる。神を賛美する歌だ。
その歌をうたうとき、「救い」は未来ではなく現在のものになる。それは、神が自分のうちに住んでいてくれる、という現在の救いだ。
あなたがたの体は
神からいただいた
聖霊が宿ってくださる神殿であり
あなたがたはもはや
自分自身のものではないのです *
註)
* Cf. コリント一 6:19
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