人生のギアのシフトチェンジを今日もガチャガチャやってます、っていう話です。
禅の公案に「隻手の音声」というのがある。
両手を打つと音が出る。じゃあ、片手だけならどんな音が出る? っていう質問だ。
これは、禅のマスターである白隠が初心者に使った質問なんだって。
自分も、この質問について何度か考えたことがあるんだけど。。。
片手で出す音???
考えても考えても、わからなかった。
どうしてわからなかったか、というと。。。
この質問が意図するところは、思慮分別を超えた絶対の境地に導くためだから。
つまり、考えたところで答えは出ない、ってことなんだよね。。。
今日の聖書の言葉。
イエスは禅のマスターではないけれど、でも、イエスの言葉には禅の公案みたいにアタマが「???」ってなるものが、いくつかあるよね。
今日の聖書の言葉は、それっぽいもののひとつだ。
自分の命を救いたいと思う者は
それを失う
大変だ! 逃げなきゃ、と思って、非常口に駆け込むんだけど、その非常口を入ったら確実に死ぬ、みたいな。。。
どんなトラップやねん(笑)
自分は小学校から中学にかけて、ずっといじめられていて、死にたい・死ねばいいのに・救われたい、の無限ループのなかにいた。
そして、それが煮詰まったタイミングでイエスに出会って、救われた。
それは、イエスの十字架と復活によってすべての罪が赦されて永遠の命が与えられた、アーメン、ハレルヤ、感謝します、よかったね! ということで。。。そこで話が終われば簡単なんだけど。。。
でも、救われた!と思ったその先に、このイエスの言葉があったんだよね。
あった、というか、いまもある、というか、常にある、というか。。。
自分の命を救いたいと思う者は
それを失う
救われた! と思ったのもつかのま。。。
それは、自分は救われた! という自分が主語の世界だ。
なので、それが続く限り、世界の中心は、いつも・たえず・つねに・自分なんだ。
自分が、自分の、自分に、自分を、自分で、という無限ループ。
自分にこだわればこだわるほど、救われた感は指の間から抜け落ちて行く。。。
このジレンマを宗教改革者のマルチン・ルターも経験してたんだけど、その彼に気づきを与えた『ドイツ神学』(テオロギア・ゲルマニカ)という本があった。匿名の修道士が書いたとされていて、それが誰かは不明。
こういうことが書いてある。
いやー。。。自意識から解放されてたら、禁断の木の実を七個食べても堕落しなかったはず、って言い切るのはさすがにどうよと思うんだけど。。。
だいたい、リンゴは禁断の木の実じゃないし。。。
でも確かに、禁断の木の実の毒気がてきめんに現れているなー、と思うのは、この自意識において、だよね。
そのトラップからは、意識高い系も、意識低い系も、逃れられない。だって、自意識は消しようがないし。。。
じゃあ、どうすればいいのよ、ってことなんだけど。。。
イエスはこう言葉を継いでいる。
わたしのために命を失う者は
それを救う
これはつまり、自分が主語の人生から、イエスが主語の人生に、ギアをシフトチェンジしろ、ってことなんだろうと思う。
で、ギアをシフトチェンジした状態を、パウロはこう書いている。
年末に新宿で社会鍋に立っていたら、自分は日蓮宗ですが無宗教です、っていうひとが来て「どうしたら人間は罪を犯さなくなりますか? 何か聖書に良い言葉がありますか?」って質問された。
そこで自分は「ガラテヤ 2:20だと思います」って答えたんだけど。。。
でも、そのひとは納得しなくて、去って行った。。。
まあ、そりゃ仕方ないよなー、って思う。
だって、自分、まだガラテヤ 2:20の境地に完全に立ち切れていないもん。
ほーら、ね。ここでまた「自分」を主語にやっちゃってるし(笑)
なので、ぎこちない手つきで、人生のシフトチェンジを今日も試みる。
イエスが主語の人生を望み見て、当面まだガチャガチャやらせてもらいましょう。。。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?