消せない傷あと
長い自粛生活で、外を歩くことをせず、体操もしていなかったところへ、急な気温の低下で身体が凝り固まってしまい、そこへ重たい箱を気合も入れずに持ち上げたために、ぎっくり腰になってしまった。。。
痛い。。。
もし、魔術や魔法で、痛み感じない身体になれたら、さぞかし快適だろうに。。。
でも、そうなったら、身体が修復不可能までに壊れてしまうかもしれない。無痛症という、先天的に痛覚を持たない症例がある。そういう人は細心の注意を払っていないと、いつのまにか骨折していたり、針が体内に入っていたり、足の指がとれていたりと、大変なことになるらしい。
痛い。。。ちゃんと運動しろ、という、身体からのメッセージか。。。
身体に対して、世界に対して、自分が行ったこと・怠ったことは、しっかりそこに刻印される。結果がはね返ってくる。注意しないと骨折するし、コップを落とせば、こなごなになる。
しかもひどいことに、身体に対して、世界に対して、ひとたび刻印された結果は、魔法や魔術によって取り消すことは不可能だ。呪文を唱えて骨折が一瞬で治ることはないし、こなごなの破片が元のコップに戻ることはない。
身体も、世界も、なんと言ったらいいのか。。。間違って油性ペンで書きこんでしまったホワイトボードみたいな感じ。真っ白なニュートラルな存在で、自分の行為や怠慢によって、どんな内容でもそこに書き込むことができるのに、ひとたび書いてしまったら、もう取り消せない。そういう意味で、ニュートラル・・・自分の意のままにならないのだ。
今日の聖書の言葉。
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 6:7 新共同訳
いちど傷をつけたら、その傷はもう、無かったようには消え去らない。世界を、そういうニュートラルな世界として、神は創造した。どうしてそんな風にしたんだ、と言いたくなってしまう。
復活したイエス・キリストの手のひらには、十字架の釘の傷あとが、しっかり残っていて、イエスは弟子のトマスに、お前の指を傷あとに差し入れてごらん、と言った。トマスはもちろん、そんなことしなかった。「神よ!」と言って、イエスをひれ伏し、拝んだ。
不思議だ。イエスは完全体に復活したのに、なぜ、傷あとが残っていたんだろう?
イエスを信じる者は、イエスが復活したように、世の終わりに復活させられる、と聖書は約束している。じゃあ、傷あとは? イエスの傷あとは、復活の身体にしっかり刻印されていた。わたしたちが人生で、自分がやらかして受けた傷、他人がやらかして受けた傷は、同じように消え去らないで、残り続けるの?
これを考え出すと、夜も眠れない。
一応、こう考えてみた。
イエスの傷あとは、復活後に、新しい意味を帯びるようになっていたのだと思う。全人類の罪責がイエスに転嫁され、十字架で身代わりの死を遂げたことによって、すべての罪がゆるされた。このようにして、イエスの傷あとは「ゆるしのしるし」となったのだ。
ここから先は想像なのだが。。。わたしたちが世の終わりに復活させられたとき、もし、そこに傷あとが残っていたとしたら、それは、おまえの罪はゆるされた、そして、あの者たちの罪もゆるされた、という意味での「ゆるしのしるし」として、刻印されているのかもしれない。
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