「信じること」だけを抱いて、眠りに落ち、「信じること」だけを抱いて、目が覚める。。。
眠りにつくことは死の予行演習だと自分は思っているんだけど。。。
だって、明日の朝いつもどおり目が覚めるとは限らないわけで。。。
でもまあ、もしいつもどおりじゃない朝を迎えたとして。。。
その場合であっても、「永遠の朝」に目覚めることになるわけだから、目覚めるっちゃあやっぱ目覚めるわけか。。。
今日の聖書の言葉。
自分が眠りにつく前に習慣的にしていることがある。
それは、一日をかえりみて悔い改めの祈りをすることだ。
どういうふうにやるかというと。。。
べつにその日の自分の言動を洗いざらい点検するというようなことではなく、シンプルに「良心」に痛みがあるかどうかを感じてみる。
すると。。。
すこーしこころに違和感を感じるような日がある。そういうときはビミョーなことをやっている。罪と罪でないことの境界線のあいだのグレーゾーンみたいなやつだ。
逆に、こころがズキーンと痛む日もある。それは、あきらかにやらかしてしまっているってことだ。
奇跡的にこころに違和感も痛みもなんにも感じない日もある。そういうときは、おだやかに眠れるよね。明日が「永遠の朝」になったとしてもなーんにも問題ない。
「良心」に違和感や痛みを感じるときには、眠りに落ちる前に悔い改めの祈りをする。
悔い改めといっても、おおぎょうなことをするわけではない。次のような短い祈りをこころのなかで三回唱えるのだ。
主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪びとのわたしを、あわれんでください
この祈りを終えて、「ああ、ゆるされた、これで安心」と実感できることはあんまりない。
それはつまり、祈ったけれど祈りがきかれたのかきかれてないのか確証がないということだ。
クリスチャンになりたての頃は、この祈りがきかれた確証がないという不在の感覚が不安で仕方がなかった。
でもある日、その不安は終わらされたんだよね。この聖書の言葉によって。。。
祈り求めるものは
すべて既に得られたと信じなさい
そうすれば、そのとおりになる
ここで言われているのは、ただ祈るだけではなく、祈ったことはすでに得られたと「信じる」ことが大切だよ! ということ。
そして、信じるということ自体がそれがのまま「確証」になるんだ。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し
見えない事実を確認することです *¹
眠りにつく前、良心の痛みを感じながら悔い改めの祈りをする。祈り終える。。。
祈り終えると、なーんにも感じない。無味乾燥だ。しかし信じる。それでも信じる。
イエスの十字架と復活によって自分の罪はあがなわれつぐなわれ完全なゆるしが与えられた、と信じる。
この目でイエスを見たことはないけれど信じる *²。
そして、そのようにして「信じる」こと自体が祈りがきかれた証拠であり確証であり保証である、として受け取る。
なので、眠りに落ちて行きながら。。。薄れゆく意識のなかで。。。こころのなかに抱いているのは、良心の痛みではなく、恐れや不安ではなく、無限の悔い改めの祈りでもなく、ただ「信じる」ことだけだ。
その「信じる」ことだけを抱いて、明日の朝いつものように目が覚めるかもしれないし、あるいは、永遠の朝に目が覚めるかもしれない。
でも、どちらにしても本質的な違いはないんだ。
だって、「信じる」ことだけを抱いて目が覚めるわけだからねー。
註)
*1. Cf. ヘブライ 11:1
*2. Cf. ペトロ一 1:8
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