人類の生き残りをかけたジーン(遺伝子)とミーム(文化的意伝子)。。。その秘策は? っていう話です。
遠い過去から現在に至るまで、ご先祖さまたちがずーっと生き延びて、自分にまで命をつなぐことができたのは、どうしてだろう?
それはきっと、数多くの厄災を通り抜けるのに成功したからだよなー、って想像する。
そういう危機を通り抜けられたのは、危機を察知して対処する能力を持っていたからだろうね。。。
で、その危機察知能力は、何世代も生き残りを重ねることで強化されて来たはずであって。。。
そうすると、いま自分のなかにある危機察知能力って、結構なものであるわけだよなー、って思ったりする。
あー、だから自分のココロって、いつもネガティブなことばかりにフォーカスしてしまうのか。。。
テレビやネットで流れて来る情報のほとんどは、考えてみればネガティブなものばかりだ。
それらを受け取ると、不安になる・ゾッとする・気味が悪くなる・不快になる・悲しくなる・怒りたくなる。。。
そういうものばかりだよね。そこに気持ちをぜーんぶ持って行かれてしまう。。。
でも、それは考えてみれば、とっても自然なことなんだろうと思う。
だって、ネガティブな情報をキャッチして生き残ったご先祖さまたちが、いまの自分のココロのありようを形作っているわけだから。
今日の聖書の言葉。
主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
詩編 30:5 新共同訳
でも、聖書は、ネガティブなことばかりにフォーカスするのではなく、ポジティブなことにフォーカスして生きろ、と勧めている。今日の聖書の言葉なんか、まさにそれだね。
もうちょっと考えてみよう。。。
ご先祖さまたちは個人単位で生き残って来たわけではなく。。。いや、もちろん、他者を省みずに個人を優先して生き残ったひとも相当いると思うけど。。。そういう利己的なジーン(遺伝子)とミーム(文化的意伝子)を多目に受け継いだら、利己主義になっちゃうんだろうね。。。
でも、大多数のご先祖さまは、誰かを助け・誰かに助けられることによって、生き残って来たんじゃないだろうか。
誰かを助け・誰かに助けられる。それは、コミュニティーの力だよね。
コミュニティーの力って、何で構成されているんだろう? ってことを考えると、それはやっぱり、コミュニケーションとお互いに対する愛なんじゃないかなー。。。
そして、コミュニケーションと愛のかけ合わせで生まれるのが「賛美と感謝」なのだろうなー、って思う。
それは、自分を助けてくれた誰かに対する賛美と感謝だ。
主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ
赦してもらった・助けてもらった・支えてもらった・守ってもらった・救ってもらった・生きろと言って背中を押してもらった。だから、生き残ることができた、っていうご先祖さまたちは、相当な数になるのではないかと想像する。
その、助けた・助けられた、というポジティブな経験が何千年・何万年と積み重なることで、利他的なジーンとミームが強化されて、それがいま自分のなかにあるに違いないんだ。
だから、赦してもらった・助けてもらった・支えてもらった・守ってもらった・救ってもらった・生きろと言って背中を押してもらった、っていうストーリーを見聞きしたりすると、涙腺崩壊するんじゃないだろうか。
そして、そこから生まれる「賛美と感謝」こそ、このネガティブなことばかりの世界で、メンタルをポジティブに転換できる力なんだと思う。
なので、自分は今日、そこにココロをフォーカスして生きてみようとする。
自分を愛してくれた人たちって、たくさんいすぎて、賛美と感謝は尽きないけれど。。。自分が経験した愛の最大公約数的なアイコンはイエスだ。
イエスは、赦してくれて、助けてくれて、支えてくれて、守ってくれて、救ってくれて、生きろと言って背中を押してくれた。
。。。くれた、って言うか、いまもイエスは現在進行形で自分にそうしてくれている。
そのイエスにココロをフォーカスして、賛美と感謝をささげよう。
そうすると、賛美すること・感謝することが、生きることになるんだ。
後の世代のために このことは書き記されねばならない。 「主を賛美するために民は創造された。」
詩編 102:19 新共同訳
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