世の中にストーリーはいろいろあれど。。。目覚めたら、ぼくも・あなたも、主人公。。。っていう話です。
世界には、いろんなストーリーがある。
それぞれのひとが、それぞれ信じるストーリーを生きている。
もちろん、ストーリーを持たずに生きる、ってひとも、いる。逃走論のスキゾキッズみたく。。。
そう考えると、自分は、類型で言ったらパラノキッズだよなあ。。。
つまり、昭和の人間。。。
だって、イエスというお題一本で1000本noteやる、とかさあ。。。
絶対パラノじゃん。。。
それにしても、ストーリーには、いろいろあるよね。
無神論者なら、歴史の弁証法的発展っていう、自分から見るとかなーり汎神論的なストーリーを生きているし。。。
仏教徒なら、永遠のむかしから悟りを開いているホトケサマが、無数のボサツを遣して救ってくれる、というストーリーだし。。。
自分はクリスチャンなので、 永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」が、クリスマスに赤ん坊となって誕生した、というストーリーを生きている。
今日の聖書の言葉。
ありとあらゆる種類のストーリーがあるわけだけど。。。
数千年来語り伝えられている古いストーリーだけじゃあない。今日も、どこかのだれかによって、あたらしいストーリーが誕生し続けている。
そういうあたらしいストーリーは、ハイファンタジーだったり、小説だったり、映画だったり、アニメだったり、Netflixのドラマだったりするよねー。
いろんなストーリーがあるわけだけど、一瞥すると、どうもなんか共通する構造があるんじゃないかなー、と思う。
たとえば、古いストーリーの場合。。。
神がいて、神が世界を創造するんだけど、どういうわけか、その神は世界の後背に隠れてしまって、以降、ずーっと姿を見せない、っていう。。。
いわゆる、オカクレになった神、だ。
じゃあ、実際に世界を運営しているのは誰なのよ? って言うと、それは、オカクレになった神が原初において創造した神々だ、ってことになる。
複数形の神々だね。聖書で言うところのストイケイア、世の構成に関わる諸霊だ。
ストイケイア、複数形の神々は、それぞれ役割分担して世界を運営している。それは、神々が個々の能力に限度がある「限界者」であることを意味している。
で、世界観のショーケースを見たとき。。。
どうしても簡単に、一神教 vs 多神教、って分類してしまいがちだけど。。。
でも、よーく見ると、多神教には、複数形の神々という上部構造を支えるところの、オカクレになった神、っていう一神教的な下部構造を持つケースが結構あるんじゃないかと思う。古事記の造化の三神とか、それだよね。
それって、ほんと、ミステリーだ。
そういうふうに整理して見れば、無神論も仏教もクリスチャンも、なーんとなく共通の構造がある、って言えるのかもしれない。
それは、どういうのかというと。。。
世界の根源者がいる。根源者は世界の後背にオカクレになっている。。。
だから、限界者が働いて、世界を回している。
そういう世界の構造のなかで、なんの拍子か、根源者からミッションをあたえられた人間がひょこっと出て来る。
そのミッションを自覚した人間は、とたんにストーリーの主人公、ヒーロー、ヒロインになってしまう。。。
目覚めたら、ぼくも・あなたも、ストーリーの主人公。
。。。ってわけ。
これが、歴史のロマン、って言うか、ストーリーを生きる醍醐味だよね。
まあ、昭和、っちゃあ、昭和っぽいけど。。。
このロマンの究極は、やっぱり、ひとりひとりの主人公が、世界の根源に触れる体験をする、ってところにあるんじゃないかなー、と思う。
自分はクリスチャンなので、 永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」が、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立った、それがイエスだ、と信じている。そして、イエスをとおして「神」の聖霊が自分のハートに宿っている、いま・もう・すでに。。。
これが、さっきの「構造」にあてはめて言えば、自分が根源者と合一する、っていう究極の体験だよね。
クリスチャン的には、聖霊体験って言うことになるんだろうと思うけど。。。
自分と根源者との合一体験。
これがあるから、自分がストーリーの主人公であることについて、何の疑いもない。。。はず。。。なんだけど。。。
そうもいかないよねー。。。
いとも簡単に「主人公気分」から退落して、主体性を喪失し、世界の流れにのまれ、自分を見失い、停滞しちゃうという。。。
イカン、イカン。。。
だからこそ、ストーリーを確認することが、必要なんだよね。何度でも。
じゃあ、どうやってストーリーを確認するのか、って言うと。。。
それはやっぱり、ストーリーの集大成である聖書を繰り返し読むしかない。何度でも、何度でも。
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