世界、創造主、自由意志、今日の自分、っていう話です。
世界は、美と優しさ満ちている。
世界は、醜と残酷に満ちている。
今日、自分が目にするのは、どっちの世界なんだろう?
今日の聖書の言葉。
創造主を信じるという立場にどこか苦しさがつきまとうのは、人生で醜と残酷を多く目にするターンになったとき、それをどう受け止めたらいいか悩むからだろう。
きっといま、世界はそのターンに入っていると思うんだけど。。。
それはつまり、なぜ創造主は醜と残酷をこの世界で許容しているのか、っていう問いになる。
この問いに正面から取り組んだファンタジー映画『バンディットQ』(1981) というのがある。
どういう映画かと言うと。。。
タイムホールに落ちた11歳の少年ケビンが、すったもんだがあった挙句、ラスボスである「悪魔」と対決し、絶体絶命の窮地に陥るのだ。
しかし、すんでのところで、スリーピースに身を包んだ校長先生みたいな「創造主」があらわれて、指先ひとつで悪魔を粉々にしてしまう。
少年は創造主に「どうして悪が必要なの? あなたが悪を創造したせいで、歴史上多くの人が死んだのでは?」と質問するんだけど、創造主は「自由意志のためだ」と答えて、姿を消す。
ほんとうに、ただ自由意志を担保するだけのために、世界はこんなふうな世界である必要があるんだろうか?
それについては、考えても、考えても、答えにはたどりつけない。謎だ。
でも、この自分の自由意志ってことを考えると、美と優しさのほうを選び取ることも、醜と残酷のほうを選び取ることも、確かに出来てしまえるんだよね。。。
美と優しさへの憧れと、醜と残酷への誘惑のはざまにあって、揺れ動く自分。それが自由意志が存在する証拠なんだろうかねー。
今日、自分はこの世界にあって、美と優しさのほうを選び続けたいと思う。
どうかそうすることができますように、誘惑に打ち勝つことが出来ますように、と創造主に祈り求める。イエスが教えてくれた、この祈りを唱えることによって。。。
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