ルールを超える BE LOVE の世界。
お互いが平和に暮らすために、いろんなルールを作って生きてるわけだけど、あんまりルールがあり過ぎると、窒息するように感じるよね。
ルールの感覚は地域によって相当ちがう。
北欧のある国では、路線バスの運転手が携帯電話でおしゃべりしながら運転しててルートを間違うことがある。
すると、お客さんが「ねえ、きみ、道を間違ってるよ」って声をかけ、運転手は「ありがとう!」お客さんは「微笑」でオシマイ。
土地が違えば、こんな悠長なことじゃ済まないよね。謝罪会見必至だ。
日本人はルールを内面化して自分を縛って生きてるところがあるんじゃないかな、と思う。
海外の他宗教の瞑想センターでは、精神を解放する技法を使うんだけど、そこに参加する日本人は長年抑圧していた感情が爆発して大惨事になることが多いんだって。
なので、参加者のエントリー時の質問用紙に「あなたは日本人か否か」っていうチェック項目があるらしい(汗)
日本人以上にルールを内面化して生きているのがイスラエル・ユダヤ人じゃないかなあ、と思う。
そこには、モーセの律法という基本のルールがある。
でも、律法だけでは足りないもんだから、「決疑論」という手法を使って、あたらしいルールがどんどん生み出されて来たんだ。
この、ルールからルールを導き出す「決疑論」を集成したタルムードという本があるんだけど、それを読むと、どうして追加のルールが必要になったかが、よくわかる。
それは、ルールがあると必ず裏をかくひとが出るから、それを規制するために、あらたなルールが生まれる、という図式なんだ。
たとえば、イスラエル・ユダヤ人は毎年10月に仮庵(かりいお)というテントみたいな構造物を庭に立てて、1週間そこで生活しながら、かつて先祖がエジプトを脱出して荒野を旅したことを想起する「仮庵祭」を守るんだけど、仮庵は建築物ではないから固定資産税がかからなかった。
だから、自分の家を建てて「これは仮庵です!」と宣言して税を逃れようとする者が現れた。
このため、ラビたちは仮庵の要件について延々と議論して、要件に当てはまらない構造物を規制するルールを作ったんだ。
今日の聖書の言葉。
ルールがあるところ、必ず裏をかくひとが、いる。
これが人間の悲しい現実だ。そのため、屋上屋を重ねるごとく、どんどんルールが増えて行って、息苦しさは増すばかり。。。
でも、新約聖書は、ルールを突き抜けた異次元の生き方を提示しようとする。それは、ほんとうに革命的な呼びかけだ。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら
霊の導きに従ってまた前進しましょう
人間の生き方として、外にあるルールを形式的に守って生きる、また、ルールを自分のうちに内面化して自分を縛って生きる、というのがある。
ところが、新約聖書はそのどちらでもなく、第三の生き方を提示する。それが、聖霊の導きに従って生きる、という世界だ。
聖霊の導きに従って生きる、って、どういうことなのか?
それは、自分の全存在を聖霊にあけわたし、ゆだねることによって、聖霊が自分を治めてくれることなんだけど。。。
そういう生き方をしているときの感覚を、古代教父のアウグスティヌスはこう表現した。
神を愛し、そして
自分の欲するままに生きなさい *
えーっ、ちょっと待ってよ、そんな無責任な! だめでしょ、それっ? って思っちゃうけど。
でも、アウグスティヌスのこの表現は、新約聖書の核心をズバリ言い当ててるんじゃないか、と思う。
神の愛である「聖霊」がイエスを通して自分に宿ると、自分は神を愛するようになる。すると、思いも願いも言葉も行いも、神の愛で動かされるようになる。
神の愛で動かされているなら、自分の欲するままに生きたとしても、神・隣人・社会と完全に調和することができるはず、なんだ。
この理論を実地に導入したのが札幌農学校のクラーク博士だったんじゃないかなー、と思う。
博士は、寄宿舎のルールが必要になった時、いろいろ決まりごとは作らないで、ただ「紳士たれ!」(Be Gentleman!) という一語をかかげたんだ。
もし、いまの時代、こういう一語をかかげるとしたら、なんになるんだろうね? Be Love! かな。。。
註)
* "Dilige et fac quod vis" in Augustine of Hippo, Epistolam Ioannis ad Parthos, Tractatus 7:8 (アウグスティヌス『ヨハネの手紙第一講解』第7講8節)
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