あれから30年(TBC42)
早朝の事だった。
関西で大きな地震があってヘリが生中継していた。
あちこちで火の手が上がり、それなのに一向に消火活動がなされず火は広がるばかり。
高速道路がちぎれている。
ビルが倒壊している。
な、なんだこの惨状は?
映画やテレビで観てきた地震の被害を遥かに越えた、想像を絶する惨状にただただ驚くばかりで、マスメディアに働きながら何も出来ない無力感に苛まれた。
今日は、あの日。
地震被害で言えば、昨年の能登や、圧倒的大規模の東日本が記憶に新しいが、阪神・淡路大地震は私にとって特別の意味がある。
1995年は私自身の生きて行く人生観とか価値観を大きく書き換えた年だった。
震災の傷が癒えぬまま迎えた3月20日、その日は遅出でいつもの電車に乗っていなかった。いつも乗っていた地下鉄日比谷線で何か事故があったらしい。
いつもと違うルートで倍の混雑にウンザリしながら出社すると、カルト教団が毒ガスを撒いたと聞く。
この文明国家で、安全なはずの日本で?
中東の紛争地帯みたいなテロが起きる。
またしてもメディアは無力で、いやむしろ奴らを増長させたのは我々かも知れない。深夜の討論番組に特別待遇で迎えた事はあの教祖の支持者を増やす結果にならなかったか?
カメラマン見習いでVEをしていた同僚が、カメラマンになるのをやめて消防士になると言って会社辞めた。
2年前に結婚して東京から埼玉に住まいを換え、呑んだくれから良き家庭人へと変貌を遂げつつあった私はファイティングポーズは取れなくなっていた。
そして6月、娘が生まれ、私は父親になった。
仕事は相変わらずで産後間もない妻子は実家に預けて海外出張やら、ゴルフ中継やら過ごし産後2ヶ月も過ぎると随分顔も体も変わっていて、嬉しいような寂しいような。
2年後には次女も生まれ、住まいも手狭になって2DKのアパートは3LDKの賃貸マンションに、それも手狭になって郊外の分譲4LDK一戸建てへとかわりながら、何かしら足りないものに気づき始めていた。
海外の仕事は体力的にはキツくても、やり甲斐のある仕事で充実はしていたが、やがてバブルの崩壊と共に仕事量は減り、会社は人件費節約のために怪しげな経営コンサルタントを雇って、変な人事制度を導入し、私は経営陣とぶつかる様になった。
夏、子供達を連れて妻の実家の近くの渓流沿いのキャンプ場に泊まり、川ではしゃぐ娘達を見るうち、足りないと感じていたものがそこにある事に気付いた。
系列の違うローカル民放局がちょうど中途採用の募集を出していて、応募してみると「東京支社に来る様に」と。面接と簡単な作文をして、次は本社へ来いと。少しだらけた感じの経営陣が居並ぶ中でプレゼン用のVTRを流し「こんなに活躍しているなら引き留められないか?」との問いに「たぶん会社も局も含めて止めようとするでしょうが、私の人生ですから。」と答えた。
そう、私の人生は1995年に転換を迎え、今の人生へと舵を切ったのだった。
あの、震災から30年。
あの時生まれた娘(ヘッダ写真)は去年、娘を産んで、私も今や「じいじ」。
定年退職して嘱託で動画編集しながらローン返済の日々を送っている。
早いもんだな30年。