見出し画像

人生の当事者としての主体性

「主体性」や「主体的」という言葉をよく目にするけど、この言葉は意外とくせもので、なにせ意味がわかりにくくないですか?

辞書を調べてもだいたいは次のような意味が書かれています。

主体性とは、自分の意志・判断で行動しようとする態度

出典:goo国語辞書

この意味がわかったようでわからない。いや、この綺麗な意味を知ったところで本当の意味で何の役にたつのか?という方が近い感情かもしれません。

昔のぼくもこの言葉の意味を腹落ちさせることができず、意味を知ってはいるけど、この意味するところを生活や人生の中で実践的には使えませんでした。

しかし、ある時を境にこの言葉の意味をクリアに自分の中に落とし込むことができ、そして実生活でも活用することができるようになりました。さらに、今では自分の人生においてとても重要な存在となる言葉までになりました。

何を機にこの言葉を活用することができるようになったのか?それは、この言葉の意味を

主体性とは自分の人生の主人公は自分であるという態度


と捉えることができた時からでした。

なぜこの考え方と出会って僕の人生においてこの主体性という言葉がうまく使えるようになったかというと、それはそもそも何がわからなかったかというところにさかのぼります。

なにがわからなかったかというと辞書的な意味の「自分の意志・判断に基づいて行動する態度」っていうのは分かるんだけど、それってすごく優秀な状態だよねと感じていました。人間は誰しも基本的には怠惰で怖がりな生き物なので自ら考えて判断して行動を続けていくっていうのはとても優秀な状態だと思うんですね。そんな状態が続くってどうやったら起こるんだ!?ってのが、正直なところいまいちよくわかんなくて、その状態は素晴らしい状態だけど綺麗ごとに聞こえてしまい、みんなに求めるのは酷じゃないかと思っていた部分があったんですね。

なので、主体的な人がいるとするならばその人はどういう感覚なんだろう?っていうところまで深めてセットで考えていかないとこの言葉を自分は使えないよなって思っていたんですね。

そういう時に「自分の人生の主人公は自分である態度」っていう考え方と出逢って全てが繋がったんですね。

まず、自分の人生の主人公は自分である態度というのは、綺麗ごとなんかではなく、とても自然な態度であり、自分の人生を生きる上でとても大切な態度です。

本当の意味で自分の人生の主人公は自分であると自覚していれば自分で考え決断し行動するのが当たり前になるだろうし、自分で責任をとって前に進めていかない限り誰も自分の人生を前に進めてくれないという感覚が当たり前になります。つまり、この感覚があって初めて自分の人生の当事者に自分がなれます。その結果として「一般的に言われる主体性」が発露するんだろうなっていうのがつながりました。

逆に、主体的でないってはどういう態度かというと、自分の人生なんて自分で決めれっこない!親なのかパートナーなのか先生なのか会社なのか誰かわからない自分以外の存在が決めるんでしょ!?自分の人生を自分で創ったり切り拓いたりすることなんてできるわけないよねという態度。根本にこの態度があると、自分から動こうという動機はそりゃ生まれにくいよなと思います。何故なら、私の人生は誰かが創ってくれるという態度は、裏を返すと、自分の人生に対してさえもお客様感覚になってしまっているからです。自分の人生の当事者としての自分がいない状態。

最後に、自分の人生の主人公は自分であるという態度がない状態で、目の前のことに主体的に取り組みなさいというのは無理があると思うし、もし瞬間的に主体的に動けたとしても、その主体性には根がないので続かないと思います。

ぜひ、ここまで述べてきたように主体性を根本からつかんでみてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?