Underratedなバンド達 第3回 〜サザンクロス(大阪のバンドです)
こんにちは、makoto です。
不定期シリーズ「Underratedなバンド達」第3回
ものすごく格好いい、素晴らしい曲を歌っている、だけど何故か低評価の埋もれつつあるバンドを紹介したい!そんな個人的思い入れだけのシリーズです。
今日紹介したいバンドは大阪が生んだサザンロックのキラ星
サザンクロスです。
といっても、wikiもないしGoogle検索しても出てこない。
「サザンクロス バンド」で検索しても、
「森雄二とサザンクロス」・・・・ってムード歌謡の人たちしか出てこない。
なんでやねん!
ということで、僕の青春の大事な1ページを飾ったバンドですので、紹介させて下さい。
サザンクロスは1978年の8・8 Rock Dayで最優秀賞を取って鳴り物入りでデビューを果たしています。
8・8 Rock Dayはヤマハ主催で関西地区で開催していたアマチュア・ミュージシャンのコンテストです。
同じ年には、あのカシオペアともタイマン張っていた関西フュージョンの雄浪速エクスプレスも出演していて、それを押さえての優勝ですから凄いことです。
翌年の1979年は「誰がカバやねんロックンロールショー」がグランプリをとっており、彼らはその後テレビでゴールデンタイムに(関西ローカルだったのだろうか)冠番組も持っていました。
それほど、関西では有名なコンテストでした。
8・8 Rock Dayは個人的な思い出もあり、中学3年生の時 当時組んでいたバンドで無謀にもにエントリーしています。予選は梅田の楽器屋常設のスタジオで「◯月◯日の◯時に来い」みたいな連絡があって、スタジオに行って2曲演奏して録音したテープを楽器屋から送ってくれました。
予定の時間より少し早くスタジオに着くと、僕らの前のバンドが Pink Floydの「吹けよ風、呼べよ嵐」を演奏しているのが聞こえてきます。Bassのリフが格好いい曲ですね。中学生の僕らから見たら大人のバンドで、貫禄負けしていてメチャクチャ緊張したのを覚えています。
何の曲を演ったのかなぁ。2曲エントリーでどちらもオリジナルだったような気がします。当時はチューリップのコピーばかりしていた頃で、自分たちでもオリジナル曲も作っていました。
そうそう、同じ頃キダタローが司会のラジオ番組でも週1回アマチュアバンドが出演して2曲演奏出来るコーナーがあって、応募したらまぐれにも当選して出演したことがあります。おそらく同じ2曲じゃないかな、と思います。
当然、全くロックではなくどポップスですし、同じヤマハのポプコンの方が向いている曲調でしたが、あちらは全国区のコンテストだったのでエントリーだけでもハードル高かったです。
まぁ演奏も下手だったので結果は
「いい思い出作ったね」
みたいな感じでした。
話を戻すと、
当時のサザンクロスは名前の通りサザンロックを演奏していて、リトル・フィートのコピーをさせたらスゴかったという。
1977年のフリートウッドマック来日時には前座もしていたそうです。
最優秀賞を受賞した年の動画は探せなかったのですが、翌年1979年の8・8 Rock Dayにゲストとして出演した際の演奏が1曲だけアップされていました。この頃のファッションはまさにサザン・ロックですね。
この曲「洒落」は、同年リリースされたデビュー・アルバムに収録されている曲です。
そして、1981年セカンド・アルバムのパラレルショットがリリースされます。
僕がサザンクロスを知ったのはこの頃で、高校2年か3年でした。
このセカンドアルバムは、ファースト・アルバムと比べるとおそらくプロデュースも方向性も少しテコ入れされていて明らかに「売れ線」を狙っていたように思います。
僕が当時サザンクロスを知ったきっかけは覚えてないのですが、このセカンドアルバムをはじめて聴いてすっかり気に入ってしまい、当時高校の同級生を中心に遊びで組んでいたバンドメンバーと「このバンドのコピーをしよう」という話になりました。
バンド名もサザンクロスの「南」をかけて、南=サザンクロスを目指すという意味を含めて「サウスバウンド」と改名して、バンド活動も真剣モードになりました。
受験を控えていたはずですが、少しプロになりたい気持ちもあったんですよね。
ファースト・アルバムもその後入手して、サザンクロスの曲をコピーしながら、オリジナル曲作りにも取り組み、京阪電車枚方駅前にあったブロウダウンというライブハウスに出演するようになりました。
もちろん、当時バーボンハウスに常連で出演していたサザンクロスのライブにも未成年でしたが観に行っていました。
そんなことをしていたので、まぁ見事に大学受験は不合格で浪人となりましたが、受験勉強はそっちのけでバイトをしながらバンド活動に精を出していました。
そして、浪人1年目の秋、付属高校から関西大学へ進学していたドラムのT君の誘いで関大の学園祭に出ることになりました。
中1の時に他の同級生を誘ってバンドを作った時からドラムのT君とはずっと一緒でしたが、当時からリズムキープが優れていとても上手いドラマーでした。自然と僕もギター・ソロを弾くよりもリズムキープが一番大事、だと考えるようになったのは、T君の影響がとっても大きかったと思います。
関西大学の学園祭はサザンクロスのコピーとオリジナルを混ぜたいつものセットリストでしたが、その時にPAをしていたスタッフさんがサザンクロスの知り合いの方だったようで、
「自分ら、サザンクロスの曲演るなんて珍しいな、バンドに合わせたろか」
と奇跡のような出会いから、サザンクロスのライブのお手伝い(昔の言葉でボーヤ)をさせて頂くようになりました。
後から知ったのですが、サザンクロスも関西大学出身でしたし、少なくともボーカルの大辻さんやギターの黒川さんは京阪沿線にお住まいで高校も某有名進学校だったということで、遠からずご縁があったんでしょうか。
そうして、学生と浪人で比較的時間のあったボーカルのT君、ドラムのT君と僕の3人でライブの時に機材運搬などのお手伝いをするようになり、最初に行ったのは神戸チキンジョージでの単独ライブの時でした。
当時のチキンジョージはキャバレーの2階にあり、スタッフはキャバレーの店内脇も通路から2階にあがって、踊り子さんの控室と隣り合わせた座敷部屋が控室で待機でした。
ちょうどその頃、サザンクロスはデビューアルバム「WAKU WAKU」を出してばかりで男性版ユーミンとして売出し中だった大江千里さんのライブ時のバックバンドの仕事もはじめた頃のようで、お金のために人のバックで演っていたストレスもあったんでしょうか、
「人のバックで演奏するより、自分らの曲を演るんが一番おもろいな」
と控室で言っていました。
実は、大江千里さんのデビュー・アルバムは発売後すぐに聴いていて、好きな曲がたくさんありました。そして何より、バンドのアレンジや演奏の感じも当時のサザンクロスの目指していた方向とかなり似ていたんじゃないかなと思っていただけに、自分たちのバンドのプライドというか
「そんなものなのか!」と感心したたことをよく覚えています。
また、大江千里さんが関西学院大学出身だったことも影響していたのかもしれないな、と最近考えるようになりました(サザンクロスは関西大学系ですが、バンカラは校風の関西大学と、キリスト系の神戸にある関西学院大学とは水と油です)
サザンクロスの特にボーカルの大辻さんには、僕らのバンドのライブ時には当時キーボードのいるアマチュアバンドでは憧れだったヤマハのステージピアノCP-80をお借りしたり、と大変お世話になりました。
ちなみに、僕の名字はサザンクロスのメンバーの1人と同じだったので、
「自分、名字一緒やったらややこしいから、そうやな、井上みたいな顔してるから今日から井上や!」と、サザンクロスのボーヤの時には半分上段で井上と名付けらていたのもいい思い出です。
そしてサザンクロスは1983年の12月25日、バーボンハウスでのクリスマスライブを最後に解散してしまいます。
デビュー当時の音楽性を変えてまで、売れようとしていた、とは当時は全く思いませんでしたが、そういう葛藤もメンバー内であったのでしょうか。
その後まもなく僕らのバンド活動も自然消滅し、僕は二浪の最後半年間やっと真剣に勉強をして無事に関西大学へ入学することになりました。
大学卒業後も東京へ出てしまい当時のバンドメンバー達とも連絡を取り合うことはなくなったので、その後のサザンクロス周辺の動向はいっさい知らなかったのですが、ベースの岡本さんがガンを患い、闘病中の1998年7月に再結成ライブを行いますが、翌8月に他界してしまったということを後に知りました。
キーボードでリーダのあみ啓三さんは、よしもとの経営するNSCで音楽講師をされてご活躍のようです。
1983年の解散ライブでは、その日しか演奏しないにも関わらず、新曲として「Merry-Go-Roundの頃」が披露されています。バンドは解散してしまいましたが、バンドへの想いは残されたまま大人の事情があったんだろう、と今でも胸が熱くなります。
この曲は当時のライブでの音源が残っていました。
また、1998年の再結成ライブの動画もアップされています。
よろしければご覧になって下さい。
今回は、個人的な想いの強いバンドを紹介しました。
誰得やねん!という感じもありますが、誰かが語り部としていかないと、みたいな大げさなものではありませんが、あくまでも個人的な目線ですがnoteさせて頂きました。
それでは!
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