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まことだより連載:本と考える①

 こんにちは、事務の渡邉です。
 まこと保育園では「まことだより」というお便りを、季節ごとに発行しています。お便りと書いてはいますが、「まことだより」はA4判で毎号40ページ前後が綴じらているので、結構マッシブ……。各クラス・各部署が好きなように書いているので、「あれも、これも」伝えるために、どうしても量が増えてしまいます。それでも、保護者のみなさまは「読み応えがある」と言ってくださり、好評です。

 日々あるいはその時々の子どもたちの様子は、インスタグラム(makoto_fukagawa)と簡単なポートフォリオをメインに発信してます。いっぽう「まこだより」では、一定の期間で捉えた子どもたちの成長の様子を、連続的にお伝えすることを目的にしています。内容盛りだくさんの保育ドキュメンテーションと言えばよいでしょうか。

 そんな「まことだより」でかねてから私がやってみたかった本の紹介コラムを始めることにしました。保育や福祉にもつながる本の紹介をメインに、たんに私の好みの本も混ぜ込む予定です。
 そこで、noteに転載して様々な方にも読んでいただくことにしました。以下が本文となります。

第1回 お題 「ふれるとさわる」
今回の本:「手の倫理」伊藤亜紗

 人の身体を出発点に独自の思想を展開している、美学者の伊藤亜紗。美学者ながら、伊藤にはケアや利他をテーマした著書がいくつもあり、ふだんの生活に照らしても、示唆的な内容が多く含まれています。その中から「手の倫理」という本を読んでみました。
 まず、本書のタイトルが印象的です。「手」の「倫理」とは何を指しているのでしょうか。伊藤はキーワードを選んで章を立て、子細に検討しています。その思考の奥行きがとても深く、抜群におもしろい本なのです。
 
 保育園や老人ホームでの、子どもや高齢者との関わりでは、身体接触が必須です。
 手を使って人(や物)と接触する際に、その行動を「ふれる」と考えるのか「さわる」と考えるのか。伊藤は、その差異を明確にしながら、両方の感覚を自覚的に使い分けることが大事だと書いています。
「ふれ」なければならない場面で「さわって」しまう、あるいは「ふれる」と「ふれられる」との関係性ができていない。ケアの現場で起こる人と人との摩擦の根底には、そんな自他の身体をめぐるすれ違いがあるのだろう、と考えさせられました。
 だから、上述した自覚的な使い分けにこそ倫理が働いています。ここはふれるべき場面か、さわるべき場面か、相手はどちらを求めているのか……それを判断する根拠が倫理です。倫理は、辞書では道徳とほぼ同義の扱いですが、本書の中では峻別されています。定規で引かれたような画一的で厳密な正しさ=道徳、ゆらぎや葛藤を経て個人が心に抱いた多様かつ場面に応じた正しさ=倫理、と私は理解しました。
 
 手と心とは無関係ではいられない。それが「手の倫理」であると(強引に)一言で言えるでしょうか。
 手が癒しを与えられるいっぽうで、暴力をふるうのも、また手です。これは「言葉」とも言い換えられます。人間は同じ身体を用いて癒しもし、加害もする。つねにその両義性の中に生きている、ということを忘れるわけにはきません。そういう意味で、どんな人も不完全さからは逃れられないのです。

 もちろん、家族、友人、パートナーとのふれる/さわる関係性においても「手の倫理」は求められることになるでしょう。本書を読んで、改めて自分の「手」をまじまじと見たのでした。

私が選んだイチ文はコレ!
「人と人のあいだにある多様性ではなくて、一人の
人の中にある多様性
なのでした。あるいはむしろ
『無限性』と言ったほうがよいかもしれない。」(P48より)


「手の倫理」伊藤亜紗(2020年講談社刊)

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