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時は流れて現在の私 8

中野の生活のお話の続きです。前回は、中野駅近くの私の入学した小学校、桃丘小学校のお話でした。今回は住居である中野区中野3丁目の集合住宅、所謂アパートです。複数の部屋のある住居など初めてでした。6畳と4畳半にダイニングキッチン。当時の私には夢のように広い家でした(笑)。

おまけに風呂も水洗トイレもついていました。夢の住居ですよ、夢の。当時はどこの家庭も似たり寄ったりの住居でして、友達の家に遊びに行っても、同じような住居でした。庭付き一戸建ての家に住んでいる友達もいませんでした。テレビまでありました!白黒ですが。

冷蔵庫はありませんで、代わりにアイスボックスなる食品冷蔵用の箱がありました。毎朝氷売りのおじさんが、大きな氷をリヤカーで運んできて売ってくれるのです。4階建ての建物が2棟ありまして、4歳から10歳くらいの私にとっては広大な敷地と中庭がありました。そこで遊んでいたのです。

アパートの外観は、昭和30年代によくあった建物で、ウルトラセブンの第8話「狙われた街」に出てくるあの団地です。あれほどたくさんの建物が並ぶ大型団地ではなく、何故か2棟だけポツンと立っていました。今思うと、実に不思議な光景です。

敷地の東の端に大きな木が4本ほどあり、よくその木に登って遊びました。アパートの裏手には、こんもりした土手に植物が生い茂っており、そこでは遊びませんでした。なんかその植物たちが怖かったのです。道路とアパートの敷地を隔てるのは、凝灰岩の低い塀でした。柔らかい岩でした。

塀の脇は小さな土手になっていて、土手の土に向かって、玩具の手裏剣を投げて遊んでいました。当時は、忍者というのは戦闘員だと思われていて、戦い方がカッコイイので、子供たちは皆、忍者ごっこをして遊んでいました。手裏剣(プラスチックのオモチャですが)を毎日投げ続けていました(笑)。

ある日のことです。いつものように手裏剣を投げていました。その手裏剣が土の土手で跳ね返らずに見えなくなって、一体何が起こったのだろうといぶかしみました。近づくと、手裏剣は見事に土に突き刺さっていたのでした。一人で遊んでいたのですが、大喜びして大興奮しました。

「手裏剣が刺さったァ!」手裏剣が何かに刺さったことなどありませんで、自分が少し忍者に近づけたような気がして、嬉しかったのです。ちなみに、その時の手裏剣は六角手裏剣でした。それまでは十字手裏剣がカッコよくて好きでしたが、その日以来、すっかり六角手裏剣が好きになったのです。

プラスチックの玩具だったからかもしれませんが、手裏剣て、まっすぐには飛ばないんですよね。なんかクルクル螺旋形を描きながら飛んでくんです。だから狙いなんか定まりゃしません。何処に飛んでくかわからないしろものです。でも視認し辛いですから敵をかく乱するには適していると思います。

忍者とか武器とかの話になると、本題が終わらなくなりますから、手裏剣の話はこの辺で。手裏剣の話のヴァリエーションを一つだけ聞いてください。私思いますのに、手裏剣(現代ではナイフでしょうか)に限らず、人を殺す道具って、どれもこれも美しいと思うんですよね。究極の機能美というか。

別に人を殺したいわけでもなく、殺した経験だってありませんよ。ただ小さな男の子がほぼ全員そうであるように、戦いの物語とか武器とかへの憧れはありました。そして気が付きました。美しいんです。人を殺す道具、という言い方が良くありませんね。戦いの道具って、どれもこれも美しいことに。

小はナイフから、大は戦闘機や爆撃機まで。どれもこれも、本当に美しいと思います。忍者が使っていたとされる手裏剣なんか、もう美の極致、芸術品と言うべきですね。だからなんです。玩具の手裏剣が土に刺さっただけで、大興奮して、ますます手裏剣が好きになってしまったのは。

失礼しました、興奮して取り乱しました!あ、興奮して取り乱したの、2度目ですね。興味のある方は1度目を書いた記事を探してみてくださいませ。中野の住居であったアパートの描写に戻ります。アパート住民の小さな子たちの一人だった私に、先輩のお兄さんたちはいろいろ教えてくれました。

印象に残っていることを二つ、ご紹介します。一つ目、モデルガン。あ、まだ武器から離れてないですね。これが最後ですから我慢してくださいね(笑)。お兄さんはモデルガンの薬莢に火薬を詰め、装填して引き金を引くと大きな音が出るようにして、私たちに見せてくれました。見せただけです。

引き金を引かなかったのはきっと、私たちへの安全配慮だったのでしょう。また、今は禁止され絶滅してしまった、2B弾と言う、なんと表現しましょうか、花火と言うか、爆竹の大きいのと言うか・・・爆発力の強い花火があったんです。これに点火して缶を被せると、10mほど跳ね上がりました。

お兄さんたちのおかげで、私たち小さな子供たちは、大変楽しいアパート暮らしができたのです。アパート周辺の町の様子も、かなり覚えています。アパートの真向かいに、自転車屋さんがありました。私の最初の自転車も確かそこで買ったものです。いつもベアと言う名の犬が繋がれていました。

自転車屋さんのおじさんとはよく話しました。自転車の調子が悪くなるたびに、おじさんの世話になりました。何件か隣に蕎麦屋さんがありました。私はそばが大好きです。理由はおそらく、ここで覚えたそばの味が好きだったからだと思います。それにあのそばつゆ、本当に美味しかったんです。

更にその隣に、駄菓子屋さんがありました。覚えているのは、安い粉ジュースの袋を買って、粉のままなめていたことです。その向かいに、煎餅屋さんがありました。一昨年、懐かしいこの街に行く機会がありましたが、なんとこの煎餅屋さんだけは、当時のままい生き残っていたんです!

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駅に向かって歩くと、左側に電気屋さんがありました。小学校時代のクラスメートの家です。そこの展示スペース(当時はショウルームなどと言う洒落たスペースはありませんでした。ただ軒先においてあっただけです)にテレビが置いてありました。そのテレビは私に衝撃を与えました。

いつもは普通のテレビが置いてあるだけで、無関心に通り過ぎるのですが、その日は違いました。夜でした。暗い夜道に、そのテレビがこうこうと輝いていました。なんと、そのテレ部はカラー画像を映していたのです。世の中にカラーテレビが登場して間もない頃です。色付きテレビ!衝撃でした!

白黒のブラウン管しか見たことのない子供の私にとって、そしてテレビを見るのが好きだった私にとって、本当に衝撃の光景でした。私は、ウルトラQもウルトラマンも、キャプテンウルトラも、白黒で見ていたんです!更に衝撃が大きかったのは、映されていた番組の内容でした。

SF映画「禁断の惑星」でした。ロボットロビーが出ているシーンでした。あの光景、未だに目に焼き付いています。どのくらいの時間だったか、はっきりした記憶がありませんが、かなり長時間、そのテレビの前に、くぎ付けになっていました。

今日はここまでにします。昭和30年代の中野の生活の様子でした。次回は、このアパートの最後の部分です。このアパートの庭から、東京オリンピックの開会式、ブルーインパルスが空に描いた五輪のマークを見た事とか、中野ブロードウェイができて、見に行った事とかのお話です。お楽しみに。


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